2014年5月25日日曜日

253;再び大飯原発差し止め判決と水戸巌・喜世子夫妻。日独反原発連帯史のひとこま

 日本の脱原発闘争史の中では、大きなエポックとなると思われる5月21日の福井地裁の判決内容については、前回ベルリンから→モニターしつつコメントしたとおりです。

 この判決についてドイツの主なメディアも速報し、プリント本体でも広く報道しています。電子版でのいくつか挙げると→シュピーゲル誌、→フォーカス誌→フランクフルターアルゲマイネ、→TAZターゲスツァイツング 、→DWドイッチェヴェレなどです。速報ですから主にドイツ通信dpaなどの引用が主ですが、シュピーゲル誌とTAZのものが市民の立場からとして優れています。また同日報じられたフクイチの地下水の放出を併せて報じたものが多くあります。これらについては本日、ベルリンから永井潤子さんが、おなじみ「みどりの1kw」でいくつかを詳しく報じられているので→そちらを参照してください。
 なお地下水放出と汚染水フイルターAlpsの停止について同日に、公共第一テレビが大きく→ニュースで採り上げました。

 さて、再びこの裁判闘争と判決関連のお知らせです。この法廷闘争に関しては、その過程を非常にわかりやすく端的に→「福井から原発を止める裁判の会」が記録していますので、これをじっくり拝読しました。市民運動としては非常に優れたホームページですね。 事務局はわずか8人で、しかも資金も十分でないのにこれだけできるのは大変なことです。
 ここからの情報を見ていて、非常に古い記憶が甦ってきたので、日本の脱原発運動の長い歴史の、特に若い人たちにはほぼ知られていないことについて紹介しておきます。
まづは、21日原告勝利判決直後の福井市での原告と弁護団の→記者会見の動画です。
この会見は歴史的なものであると思います。是非ご覧ください。

  
原告と弁護士の皆さんの思いのこもった発言それぞれが、素晴らしいものです。この中で当法廷の口頭弁論で原告の一人として→意見陳述をした水戸喜世子さんが、少し話されています(22分から26分)。これを見てわたしもおもわず涙を誘われてしまったのですが、それには以下の理由があります。
 まずは、この方の夫である→水戸巌氏は日本の脱原発闘争の草分けの指導者・第一人者であったからです。東大で放射線物理を学び、学者としていち早く原発の危険性を訴えて、裁判闘争を始めた第一人者でした。誰でもよく知っている高木仁三郎氏の先輩に当たります。
 ところが、残念ながら1986年末に冬山で遭難され故人となり、これは後の闘争にとって大きな損失でした。しかしお連れ合いの喜世子さんが彼の志しを継いで、40年以上、待ちに待ったこの判決に感動される姿を見て、25年前の89年5月にドイツを訪問された時の記憶が甦ったのです。

 当時、始めて3年目の日独平和フォーラムの市民交流に14人の日本市民とともに、ドイツ各地の反戦市民運動の仲間を訪ねました。 中でも当時、ドイツの反原発運動の中心地であったヴァカースドルフ核燃料再処理施設予定地に、同地の力強い市民運動の仲間を訪ね、ホームステイしながら5月7日には定例の「日曜散歩」に参加しました。以前報告しましたように、その→前年5月の訪問の時には、まだわたしたちも機動隊に阻止されて散歩もできないような『原子力帝国』(ロバート・ユンク)ぶりでしたが、1年後はドイツの核の男爵シュトラウス元州首相も死亡し、法廷闘争にも勝利して施設建設放棄が公式決定される直前でしたので、雰囲気は全く違っていました。警察官の姿もほぼありませんでした。市民が勝利し、ドイツの核燃料リサイクル計画を放棄させた喜びが広まりつつあったのです。
 その際、わたしが撮った写真をお見せしましょう(クリックで拡大します)。
DJF Wackersdorf vor der WAA 7.5.1989
再処理施設建設用地前での記念写真。前列右から5人目が水戸さん。3人目は小田実氏。水戸さんの後ろが地元のシュヴァンドルフ郡の郡長夫妻。郡長夫妻も後年六ヶ所村を訪問しています。
反戦反核をまとった水戸喜世子さん1989年5月7日
水戸さんは21日の記者会見でも、夫の巌さんが「六ヶ所村の漁師を訪ねて核燃料再処理施設の危険性を説いた」と述べていますが、当時は夫と息子さんを失い失意の底にあった彼女も、ここをこの時期に訪問して、ドイツでは夫の遺志が実現しつつあることを実感されたのでしょう。横断幕を纏って日曜散歩する笑顔がそれを語っているようです。
(WAAとはドイツ語の再処理施設の縮小形です)

調べるとフクシマ以降、朝日新聞と東京新聞が水戸夫妻について報じたようです。→こちらを参照してください。

以上、日独反原発運動連帯史の小さなひとこまを紹介しました。あれから四半世紀も経って、日本の脱原発もまだまだ道遠しですが、何としても第2のフクシマが起こる前に実現しなければなりません。この写真の当時、水戸さんもお会いになった、小学校に入ったばかりのわたしの息子が、ドイツの再生可能エネルギー関連で専門家の卵になって修行中です。日本語のインタヴューがありますので、水戸さんに喜んでいただけるかもしれないので、親父としてはかなり気恥ずかしいのですが、この際ついでに紹介しておきます。
→なぜドイツはエネルギー転換を決断できたかPDF
 これのソースは→金田真聡のベルリン建設通信No.9

追加です;朝日新聞の2012年の記事が見つかりましたので拝借します。



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