左は19日まで開催された今年の第62回ベルリン映画祭のポスターです。この映画祭は通称としてBerlinale/ベルリナーレと呼ばれます。
2010年の映画祭で、若松孝二監督の『キャタピラー』に出演した寺島しのぶさんが、見事に最優秀女優賞を獲得しましたが、その記念に執筆したものです。
原文は『図書新聞』2010年3月 20日号に掲載され、さらにその夏、日本で上映されるにあたり出版された同映画のカタログに転載されたものです。
ベルリナーレは「社会性の強い映画が評価される」とよく言われますが、日本ではそれが何故かについては、映画界の専門家でさえ良く知られていないのが実情です。
それを知っていただくために執筆したものです。
ブログに掲載するにあたっては、写真を一枚だけを差し替えました。
以下が本文です。
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ベルリナーレ(ベルリン国際映画祭)・復活の三つのメタファー
文化の根は深く生き延びている 梶村太一郎
写真1。レネー・シンテニス。1925年のポートレート部分 |
赤いマフラー
二月二〇日の夜、第六〇回ベルリン国際映画祭(ベルリナーレ)で若松孝二監督の『キャタピラー』で主演した寺島しのぶが、最優秀女優賞を獲得した。
表彰式では、赤マフラーの若松監督が日本での舞台のため不在の寺島に代わって「銀熊」トロフィーを受け取り、メーッセージを代読した。その姿には、あたかもドイツの巨大労働組合のボスに似た落着きと貫禄が観られた。というのも、このカシミヤのマフラーは二〇〇一年以来の映画祭のディレクターで、ドイツ映画界の大物ディーター・コスリックから彼にプレゼントされたもので、よく似合っていたからだ。
今年のベルリンは厳冬で、映画祭の間も最高気温が零下の真冬日が続いていたための気遣いであったのかもしれない。だが実はそれだけではない。赤マフラーはコスリックが長年属する社会民主党の党員たちの冬のシンボルで、政治性の強いベルリン映画祭の彼自身のトレードマークなのである。そこには、ドイツの六八年世代の文化界の有能な代表から若松監督への連帯の意思が隠しようもなく視てとれる。
コミニケーション科学教授である彼は、一昨年のこの映画祭で二つの賞を獲得した『実録 連合赤軍』が示した監督の能力をよく知っている。メディアとしての映画には良し悪しはともかく、時代におもねる映画と、時代を創ろうとする映画がある。若松孝二の作品は後者であることをコスリックは見抜いており、共感を示したと思う。授賞式での若松のマフラー姿は、したがってそれへの応答となっていた。
さて早速、日本のメディアは「田中絹代以来の三五年ぶりの快挙」と大きく報道した。私は一九七五年、田中が同じ賞を得た熊井啓監督『サンダカン八番娼館 望郷』を、その頃はまだ夏に開催されていた映画祭で観た。山崎朋子の原作を読んでいたので、原作に忠実な脚本に驚いたことを思いだした。当時、西ベルリンに来たばかりの私は,この授賞によってベルリン市民が日本映画を高く評価していること、また近所のアルゼナールという小さな古い映画館が小津安次郎や黒澤明の古典的名作を多く集めており、普段から繰り返し上映していることを知った。私は異郷の地で期せずして巨匠の古典を堪能できる環境に巡り会ったのだ。
「武器庫」
一九五一年から米軍占領下の西ベルリンで始められたこの映画祭は、生まれからして「自由世界のショウウインドウ」として、東西冷戦での反共文化の最前線という政治性を孕んでいた。当初の数年間は何と米軍の軍事予算からの借金で維持されたのだがら、それも驚くに値しない。ところが、世界三大映画祭のひとつになるまでの六〇年間に、強烈な政治性だけは維持されながらも、内容は極めてダイナミックに変遷している。その背景には「武器庫」がある。
生誕の事情からして五〇年代から二〇年ほどは、ハリウッドなどの西側の商業映画が主流であった。「ただ、例外は小津や黒沢の日本映画で、彼らの作品はわたしたちには啓示でした。スチール写真がないので、黒沢の映画を上映中に隠し撮りしたこともあります」と映画批評家のウーリッヒ・グレゴールはつい最近述べている。
彼と夫人のエリカたち、当時の若手の批判的六八年世代の映画人たちが、市民運動「ドイツキネマ友の会」を結成したのは六二年のことだ。彼らは映画祭に合わせて、カウンターパートの「オールタナティウ゛映画祭」を開催し、前衛映画や社会批判的映画の紹介を続けていた。七〇年には、安く売りに出た古い映画館を、借金をして二万五千マルク(当時の三〇〇万円ほど)で購入した。これが彼らの拠点映画館「アルゼナール=武器庫」である。この名はロシア革命で、ウクライナの武器工場での労働者蜂起を英雄視して描いた二九年のソ連映画名に由来する。以来、日本の古典や前衛映画もこの「武器庫」に収納され上映されることになった。
そして、まさにこの七〇年に映画祭は最大の危機を迎えた。上映された若いドイツ人監督のヴェトナム反戦映画『O.K』を審査委員長が「反米映画だ」と批判したことが契機で、審査委員会が紛糾し辞任。それに抗議する若者たちに映画館が占拠される騒ぎとなり、ついに映画祭は中断されてしまった。存続の危機である。
この危機を救ったのが当時の社会民主党ベルリン文化相のヴェルナー・シュタイン。彼はグレゴールたちの運動を映画祭に組み込む提案をしたのだ。それを受けて翌七一年から始まったのがヤング・フォーラム部門である。フォーラム部門はちょうど始まったウイリー・ブラント首相の東方外交の波に乗り、社会主義諸国の優良な映画を紹介する活動も始めた。このようにして「反共の砦ベルリン」のそれが、文字どおり冷戦の壁を越えた国際映画祭としての基盤を徐々に整え始めたのである。「当時、本家の中国では文化革命は失敗したが、ドイツでは成功した」と最近よく言われる。まさにその好例のひとつである。こうして「武器庫」は、冷戦終結後のきらびやかなベルリン映画祭の発展を準備する頑丈な土台となった。
彼らが紹介した日本映画の数は非常に多い。若松孝二関係だけでも、初期の多くの作品に続き、七六年に若松プロダクションの大島渚監督『愛のコリーダ』(これは初上映の直後、会場で私服の検察官に「ポルノ映画」としてフィルムが差し押さえられ、大スキャンダルとなった)が上映されたのも、最近では〇八年に『実録 連合赤軍』が二つの賞を得たのもフォーラム部門である。
二〇〇〇年のことだが、私の愛した小さな映画館アルゼナールは、街の中心のベルリンの壁が撤去されて再建なったポツダム広場に引っ越してしまった。ベルリナーレが行われるソニーセンター地下の、まるで別世界のような大きな映画館となったのだ。
少し寂しいのだが、この映画芸術愛好家たちの市民運動がこれまでに果たした役割には巨大なものがある。ベルリン映画祭の特徴として、政治的で社会批判が一貫して強いのは彼らの「武器庫」の力によるものだ。
六〇周年の今年、グレゴール夫妻は、山田洋次監督と並んで特別功労賞「ベルリーナカメラ」を授賞している。授賞に際してのインタヴューで、彼には過去に何度もベルリナーレのディレクターになるよう問い合わせがあったが、いずれも断ったと答えている。その理由は「フォーラムは予算は少ないが、独立性が維持でき、コンペ部門のような妥協をしないで済むからだ」。このようにして、いまや「武器庫」は世界の映画の宝庫となったのである。
トロフィーの熊
ところで、若松監督が受け取り、主演男優の大西信満が日本へ大切に持ち帰って、無事に寺島しのぶに手渡した最優秀女優賞のトロフィーの熊であるが、これにはもっと長い黄金のワイマール時代からの栄光と苦難の歴史がある。受け取った寺島が嬉しくて、その頭に接吻をしたこの小さな熊はナチスに弾圧され復活した経歴をもっているのだ。
写真2 シンテニス、小熊 ブロンズ 1932年 |
生みの親は女性彫刻家レネー・シンテニス( -->Renée Sintenis、一八八八=一九六五・写真1)。彼女はワイマール時代には、女性としてはケーテ・コルヴィッツに次ぐ有名な芸術家であったが、日本ではほとんど知られていない。というのも彼女の作品の中心が、子馬や犬などの動物の比較的小さなブロンズ像であり、純芸術的で社会性がみられないからであろう。
古いユグノー教徒の家系に生まれ、ベルリンの北方の小さな田舎町で幼少時代をすごした彼女は動物を愛した。特に生まれたばかりの子馬(一歳駒)は、彼女には「最も美しい動物」であり、多くの作品を残している。一九一五年、ベルリンの展覧会で無名の彼女の作品を発見したのは、詩人ライナー・マリア・リルケである。彼は「炎のでるような」賞賛の手紙を彼女に書き、またトーマス・マンら、当時のドイツの高名な作家、芸術家らに紹介状を送っている。このオーギュスト・ロダンに心酔していた感性豊な詩人は「女性でしかできない表現力」を一目で見抜いたのである。当時はまだ彫刻は「男の職業」であったのだ。
一九二〇年代は芸術家にとっては黄金のワイマール時代で、収入も豊になった彼女はベルリンの自宅に馬を飼い、毎朝、街の中心のティアーガルテンを騎馬で散歩したという。一八〇センチを越える長身でおかっぱ断髪の彼女は、時には男装もしており、中心街のモガたちの中でもとびきり目立ったといわれている。そのころは、スポーツ選手のダイナミックなブロンズ像をものにして、二八年のアムステルダムオリンピックで芸術賞を授賞、国際的な名声も得ている。三一年には女性としては史上初のプロイセン芸術院会員になった。
ところが、三三年のナチスの権力掌握で運命は一挙に暗転する。まずは芸術院から排除され、「非アーリア的人物で、退廃芸術家」と烙印を押され、展覧会出品も禁止された。そのため夫の画家エミール・ルドルフ・ウ゛ァイスとともに「国内亡命」へ入る。四二年には夫も失い、敗戦間際には空襲で、公園に連れて逃げた一匹の飼い犬以外は一切を失っている。
戦後は芸術院にも復帰し、ベルリン芸術大学教授になったが、健康も害し、もはや創作の力も衰えていた。五一年、そんな彼女のところに始まったばかりのベルリナーレからトロフィー制作の依頼があった。そこで彼女が示したのが、三二年に制作した小さな熊のブロンズである(写真2)。以来、六〇年間、シンテニスの熊は、ワイマール時代と同じベルリンの芸術専門鋳造の老舗「ヘルマン・ノアック」工房で毎年生まれ続け、金箔、銀箔の装いで、世界中の監督と俳優たちの手に渡されている。
写真3 ベルリン市紋章 |
ところで、金熊銀熊賞はベルリン州の紋章が古くから熊であることに由来するとされている。それは間違いではないのだが、戦後の五四年に改めて制定された正式な市の紋章の熊(写真3)とは、一見似てはいるが非なるものであることは知られていない。生粋のベルリン子たちは「見ろよ、ベルリン州の熊はいまだにナチスと同じで右手を挙げてるぞ。スキャンダルだ」とけなす。シンテニスの熊は反対に左手を挙げている。いまではベルリナーレのロゴにもなっており、こちらの方がベルリンを世界に代表している。毎年、熊を鋳造し続けている工房の三代目七九歳のヘルマン・ノアック老人もグレゴール夫妻とともに特別功労賞を受賞した。かつてシンテニスやコルヴィッツのブロンズを制作したのは彼の先代である。
今年のベルリナーレの一〇日間に紹介された映画は四〇〇本、観衆は三〇万人であった。初日には一九二七年にフリッツ・ラング監督のワイマール時代の最大の古典無声映画『メトロポリス』の長編フイルムが、特別作品として八三年年ぶりに復活上映された。昨年、アルゼンチンでほぼ全長のコピーが発見され、修復デジタル化されたものだ。ベルリン放送交響楽団の生演奏つきだが、約二時間半の長さなので,オペラのように途中で休憩があった。
驚くべき迫力のある前衛作品であった。どうやらベルリンは映画のメトロポールとして復活しつつある。文化の根は深く、生き延びている。
(ベルリン在住ジャーナリスト)
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