Wegzehrung 旅の糧
Mit einem Sack Nüsse ひと袋の堅果*とともに
will ich begraben sein わたしは埋葬されたい
und mit neuesten Zähnen. もっとも新品の歯もそえて。
Wenn es dann kracht, そして砕く音が響けば、
wo ich liege, わたしが横たわっているところで、
kann vermutet werden: こう推測されてよし:
Er ist das, それは彼だ、
immer noch er. またもや彼だと。
Aus: „Fundsachen für Nichtleser“, 1997『読者でない人への遺失物』1997より
(翻訳:梶村太一郎。訳注:堅果*はクルミやハシバミのような堅い殻のある木の実)
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これは今朝、ベルリンの→フンボルト大学森鴎外記念館からわたしへ転送されてきた、ギュンター・グラス氏の訃報の一部です。同じ文学者記念館であるリューベックの→ギュンター・グラスの家から送られてきたオフシャルのものです。
グラス氏は本日、2015年4月13日の午前、リューベックの入院先で肺炎のため亡くなったと報道されています。 87歳でした。(14日追加:本日の南ドイツ新聞が、30年間、グラス氏の作品を出版しているスタイドル氏の話しを伝えていますが、それによれば、先週、グラス氏を自宅に訪ねて次の著作の出版の最終的な打ち合わせをし、6月12日には出版記念の朗読会をする予定まで話し合い、いつものとおり、その日はバーデンの果実酒で乾杯したそうです。まったく普段と変わらなかったのですが、金曜日に突然高熱を発し、月曜日の朝に肺炎で亡くなったとのことです。)
この訃報に、まさに彼らしい詩がまるで遺言のように付けられているので、上記にわたしなりに翻訳してみました。ここで「砕く音」と訳したkrachenという動詞は、「大音を立てて響く、大喧嘩をする」といった意味があります。
グラス氏は戦後のドイツ史では、文学者として政治的にもしばしば、大喧嘩を仕掛けた人物です。その最後のものとしてはちょうど二年前に一遍の散文詩でイスラエルを批判して大騒ぎになりました。イスラエルとドイツの痛いところを突いたため、イスラエルから入国禁止措置をとられたりしました。この大喧嘩についてはこのブロクで→3回にわたり詳しく報告して大きな反響があったとおりです。
また2006年には、逆に彼が痛いところを突かれた大騒ぎもあり、これについては→こちらで紹介してあります。その際、紹介した「グラス親衛隊事件」への朝日新聞での解説記事のオリジナルをここでつけておきます。(クリックで拡大できます)
「朝日新聞」2006年9月21日 |
この写真は1985年の選挙運動でニーダーザクセン州をブラント元首相とともに訪ねたときのものです(右)。左には後の首相となり脱原発法を実現したゲアハルト・シュレーダー氏の反原発運動に専念する若き姿があります(写真:DPA)。
グラス氏は当時から この州に建設予定のゴアレーベン核燃料最終処分場に反対する運動を積極的に応援し、社会民主党が原発推進から脱原発に政策転換することにも貢献しました。
わたしがグラス氏の姿を最後に見たのは、下の写真にあるように東独出身の女性作家クリスタ・ヴォルフ氏の追悼集会でした。2011年の12月でした。そのときは元気そうで、翌年のイスラエル批判もあり、まだまだ活躍されるのではないかと思っていたのですが、突然の訃報に驚いたというのが正直なところです。
そこで旧い記憶をたどると、確か30年ほど前に、日本の雑誌の取材で彼の北ドイツ海の近くのアトリエを訪ねたことを思い出しました。彼は小説家であるだけでなく非常に優れた画家でもあり彫刻家でした。これが初対面で インタヴューの後に「これはポルトガルのものだよ」と珍しいイチジクのリキュールを親切にふるまってくれ乾杯しました。
敗戦70周年の今年は、先にワイツゼッカー元大統領も亡くなり、戦後社会に決定的な役割を果たした大人物が現世から消えて行くようです。 しかし、文学者のグラス氏は詩にあるように墓の下からでも大喧嘩を仕掛ける決意であるようです。偉大な作家とはそのようなものです。亡くなって死出の旅路からも木の実を糧に騒ぎを起こすようです。楽しみです。
クリスタ・ヴォルフ氏の追悼集会で左がグラス氏。2011年12月 |