2012年8月31日金曜日

116:核戦争防止国際医師の会・IPPNWのフクシマへの勧告/低線量被曝軽視と腐敗した「原子力村」の誤情報を警告/Kikk調査と広島の被曝線量の再評価について

この8月に広島で開催された核戦争防止国際医師の会の世界大会に参加した医師たちの調査団が、28日に福島を訪ね、29日に東京の衆議院議員会館で記者会見をし、「福島事故後の人々の健康を守るために」とする勧告を発表しました。


 これについて朝日新聞の本田雅和記者は30日の電子版で→以下のように伝えています
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反核の医師ら「勧告」

2012年08月30日
○「低線量被曝軽視に遺憾」
 東京電力・福島第一原発事故の被災地を視察した核戦争防止国際医師会議(IPPNW)のティルマン・ラフ共同代表(オーストラリア)らは 29日、衆院第1議員会館で記者会見し、年間被曝(ひばく)線量1ミリシーベルトを超えるとみられる子どもや妊産婦の移住の保障や被曝者登録制度の早期確 立をめざす「福島の人々の健康を守るための勧告」を発表した。
 欧米やアジアの医師や医学者ら30人からなる同会議調査団は27日、東京でのシンポジウムで国内の専門家と討論。28日には川内村などを視察し、県立医大の教授らと意見交換した。
 「年間100ミリシーベルト以下は安全だとの主張に科学的根拠はない」とするティルマン代表らは、「日本国内で権威ある専門家や学校教材 が低線量被曝の危険性を軽視する誤った情報を流している」と指摘して「遺憾」を表明。「放射線の健康影響に関する正確で独立した情報を迅速に公開していく こと」を提言した。シンポジウムでは県内で自主的に放射線量を計測している市民団体の代表が「放射能に対する市民の不安を口にすることさえ抑え込まれる構 造になっている」と訴えた。
 同会議米国支部のJ・パターソン次期代表らは「原子力は商用も軍用も密接不可分につながっており、放射線障害に根本的治療はなく、予防しかない」などと話した。
(本田雅和)

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なお、この記者会見の全部はIWJのここの中継で見られます(追時通訳付き)。

またそれに先立って東京で行われた8月27日の国際シンポジウム「福島の原発事故と人々の健康 ~教訓と課題」の→IWJの記録はこちらです

 以下、29日の勧告に関するプレスリリース全文です。

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         国際医師団の勧告
     福島の原発事故後の人々の健康を守るために

2012年8月29日
 福島/東京 
「福島の惨事で被害をうけた人々に対して私たちが負っているもっとも重要 な義務は、核兵器を廃絶し原子力から脱却することである」と、核戦争防止国際医師会議 (IPPNW)共同代表のティルマン・ラフ准教授は福島県内の視察後に述べた。米国、 カナダ、英国、ドイツ、フィンランド、イスラエル、インド、ニュージーランド、オース トラリアからの計30名の医師、医学生、学者らは8月28日に福島県内を視察した。
 
 この視察は日本の「核戦争に反対する医師の会」が受け入れたものである。
諸外国からの専門家たちは、福島の原発事故の状況を深い憂慮をもってフォロー
してきた。この数日間、これらの専門家らは、広島における第20回IPPNW世界
大会および8月27日に東京で開催された国際シンポジウムにおいて、日本の放射線、
医学、原子力工学の専門家らから話を聞いてきた。
 
 原子炉と核兵器の根本的な過程は同じである。1998年、IPPNWは、医学上の
根拠により、原子力からの脱却が必要であるという最初の明確な立場をとった。
原子力は、そのすべての段階において健康に対して許容しがたい害をもたらし、
破滅的な放射線の放出の危険性をもち、核兵器に利用可能な濃縮ウランやプルト
ニウムの生産と密接不可分につながっており、世界の人々の健康に対する最も
深刻な脅威である。

これらの専門家団は、福島の原発事故により現在進行している惨事の中で、人々の健康と 安全を第一優先とする行動をとるために、以下の主要な勧告を行った。 

  • 汚染された地域に住んでいる人々は、彼らがどのくらいの放射線被ばくを受けるで あろうかということに関する完全な情報にアクセスできる必要があり、放射線被ば くをあらゆる可能な形で最小化するための支援を受けるべきである。年間被ばく線 量が5ミリシーベルトを超えることが予想される人々については、とくに子どもや 子どもを出産できる年齢の女性の場合には1ミリシーベルトを超えることが予想さ れるときには、彼らが移住を選択する場合に健康ケア、住居、雇用、教育支援およ び補償が公正かつ一貫した形で受けられるようにしなければならない。最近成立し た「原発事故子ども・被災者支援法」は、正しい方向に向けた重要な一歩であり、 実現可能な早期に効果的に実施されなければならない。これらのすべての措置は、 原発からの距離ではなく、実際の放射線被ばくレベルに応じてとられなければなら ない。被ばくを年間1ミリシーベルト以下に減らすためのあらゆる努力を可能な限 り早く行わなければならない。 

  • 福島の原発事故によりあらゆる形で1ミリシーベルトを超える被ばくをしたであろ う人々全員の包括的な登録制度を早期に確立することが必要である。その中には、 福島県に隣接する県の人々も含まれるべきある。この登録には、事故後の放射線被 ばくに関する最善の評価が組み合わさるべきであり、死亡率、ガン、先天性形成異 常、妊娠・出産状況との関係に関する全国的なデータとの関係に関するベースとし て活用されるべきである。

  • 専門家らは、地震発生以後福島第一原発で働いている2万人を超える労働者たちの、 また、破損した原子炉ならびに使用済み燃料プールを廃棄していくために今後何十 年にもわたってそこで働かなければならないであろうさらに多くの労働者たちの健 康状況に対して憂慮している。労働者を保護する措置が不十分であったり、被ばく 線量計が偽装され低線量を示したりといった報道があることを、専門家らは問題視 している。原子力産業に従事するすべての労働者のための生涯にわたる放射線被ば く登録管理制度が早期に確立されなければならない。 

  • 権威ある専門家や学校教材を通じて、放射線の危険性を軽視するような誤った情報 が流布されてきたことは遺憾である。「原子力ムラ」の腐敗した影響力が広がって いる。放射線の健康影響に関する正確で独立した情報をタイムリーに公開していく ことがきわめて重要である。
     
    核爆発や原子炉事故による破滅的な影響に対して、効果的な処置法は存在しない。
    制御不能な状態は防がなければならないのであるから、安全で持続可能な世界の
    ためには、核兵器も原子力もなくさなければならないことは明白である。
     
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    以上ですが、この勧告が誤解され解釈される恐れがありかもしれませんので
    少しコメントしておきます。
    ここに1ミリシーベルトとの基準がでてきていますが、京大の小出裕章助教授が
    「成人が年間1ミリシーベルト被曝すると2500人に1人が癌になります」と
    述べているように、大人の5倍の放射線感度のある子どもだと、500人に1人、
    もっと感度の強い乳児や胎児などではさらに癌発生の確率は高くなります。
     
    既に昨年の→ドイツ放射線防護協会の日本政府への勧告の翻訳を報告しました時に、
    その原註の解説で紹介しましたように、ドイツでは原発立地の周辺では、
    全国で例外なく5歳以下の幼児の白血病が有意/顕著に高いことが 疫学的に
    完全に立証されています(これはいわゆる「Kikk Study」と通称されており、
    腐敗した原発ロビーの学者が反論できないので、無視しています)。
    すなわち、安全な被曝閾値はないということが前提にしなければなりません。
    原発周辺の非常に低い放射線被曝でも安全ではないのです。
    フクシマ事故により日本の非常に広い範囲がすでに危険地帯となっている現実を
    前提とすべきなのです。
     
    ここまで、書いたところ実にタイミングよく市民と科学者の内部被曝研究会のHPに
    先の6月に訪日されたドイツの専門家の資料集の翻訳が公開されました。
    →ここでPDFで全文が読めます
    この中の7・プフルーグバイル博士「ドイツの原子力発電所周辺の癌と白血病・
    Kikk調査」をお読み下さい。博士はドイツの連邦放射線防護庁によるこの疫学調査
    の専門家委員の1人でしたので 、当事者としての解説となっています。
     
    また、インゲ・シュミッツ-フォイエルハーケ教授の歴史的功績である「広島の
    被爆者の被曝線量の再評価」に関する資料と解説も是非お読み下さい。
      
    いづれも、放射線被曝に関する長い研究と裏付けのある、現在では誇張ではなく
    世界で最先端の論文とその解説です。この二人のドイツの専門家の業績こそ、
    世界の原子力産業と核マフィアが最も恐れているものに属します。  
    
    
-->
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目下日本滞在中のプフルーグバイル博士の大阪での講演での質疑応答を守田さんが
ブログ「明日のために」に掲載されていますのでご覧ください。生の声の記録です。
→「関西を命のセイフティゾーンにするために」
(9月2日追加)










 

2012年8月26日日曜日

115:ベルリンでのフクシマ慈善演奏会の写真・Bilder vom Benefizkonzert für Fukushima in Berlin/デュッセルドルフも大成功・großer Erfolg auch in Düsseldorf

 話しが前後しますが、前回の続きは後回しにして、先にお知らせしましたベルリンでの→フクシマのための慈善演奏会が昨日8月25日に行われましたので写真でその模様をお知らせします。
会場は、ベルリンでは少数派(10%弱)に属しますが、→あるカトリック教会の神父館のホールでした。神父さんは、古い建物ですが音響効果も良くピアノもあるこの会場を無料で提供されました。
約百人の日独の聴衆が参加され、経験豊富なプロの音楽家のみなさんの素晴らしい芸術を堪能しました。主にモーツワルトと日本の歌曲が中心でした。
以下写真でその様子をお知らせします。
















Kristin Angebrandt,Violine














Johanna Knauth, Sopran





















Mieko Kanesugi,Sopran



















 Miyuki Motoi & Mari Watanabe, Klavier
                             Elisabeth Umierski,Alt & Dieter Zahn, Klavier
                                      Finale、alle Musikerlinnen zusammen!


さて,今回の演奏会の主催者はこのご夫妻です。
→渡辺麻里さんは、ベルリンで長年ピアニストとして、また一流の劇場でオーケストラの指揮者として有名な超ベテラン。夫のEddy Tilman さんは有名な劇場のTheater des Westens で舞台マネジャーを務められた方だそうです。

ですから、このような小さな演奏会の段取りは手慣れたもので、実に見事な進行でした。
参加者からのフクシマの市民放射線測定所への寄付もかなり集まったとのことです。

フクシマの子どもたちが、チェルノブイリ周辺では居住禁止区域になっているような高放射線地域で生活している事実は、日本以外ではかなり伝えられており、それを心配し、懸念する人々は多いのです。
ドイツ放射線防護協会を通して送られる寄付金は、フクシマの子どもたちの健康維持にささやかな貢献をするでしょう。

このお二人と、ボランティアで演奏して下さった日独の音楽芸術家のみなさまに、また参加されたベルリンの世界市民に心から感謝いたします。

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なお、同日デュッセルドルフで行われたアクションも大成功であったようです。
この日の夕方、西ドイツ公共テレビ放送・WRDがニュースで 詳しく報じています。

Sayonara Genpatsu, Düsseldorf

数百人が広場でのアクションの後、日本が再生エネルギー社会に転換することを祈って、象徴的にライン河の橋の上からヒマワリを流しました。
「大事故にもかかわらず、原発を再稼働されたので、ついに同地の日本人も怒りだして初めてデモを行った」と、ていねいに主催者のひとりの言葉とアクションのルポで伝えています。


主催者からの詳しい報告は上記ニュースの日本語訳とともに目下作業中とのことですので、出ましたらお伝えします。(28日追加)
上記のニュースに日本語字幕をつけ、編集をしたものが出来ました。以下ご覧ください。
これは、日本であればNHKテレビが夕方のローカルニュースの トップで放映したのに等しいのです。次のデモはさらに大きくなるでしょう。(31日追加)


→SAYONARA GENPATSU DÜSSELDORF 8-25-2012

 

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やっと、苦心の報告が出ました。

→AtomkraftfreiesJapan-SAYONARA GENPATSU Düsseldorf


ヒマワリの花を集めた様子や、音響機器が役に立たなかったが、終わりよければすべてよしの経過が判ります。300人も集まり、これは第一回でまた、次には秋にやるとの決意も述べられています。立派な大成功ですね。それを祝して、 写真もお借りします。
 面白いのはベトナム人の反原発のみなさんが参加したとのことです。

  日本がフクシマ事故にもかかわらずベトナムに原発を輸出しようとしていることは、厚顔無恥の極まりです。日本とベトナムの愛国者たちは反原発で多いに連帯すべきです。ただこの写真で少し気になるのは、ベトナムの友人たちの旗です。この次からはこの旗ではなく、ベトナムの反原発運動の旗を持ってきていたくようにお願いした方が良いでしょう。

反原発運動は反体制イデオロギーではなく、それを超える普遍的なものであるべきだからです
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と書いたところ 、主催者のブログに→ベトナムの皆さんの挨拶が掲載されました。拝読しますと、まったくイデオロギー色のない、日本の原発輸出と祖国での原発プロジェクトに反対する、全うな連帯のメッセージなので、安心いたしました。これが結びのスローガンです。


ATOMKRAFT IN JAPAN - NEIN DANKE!
ATOMKRAFT IN VIETNAM - NEIN DANKE!

ベトナムの友人の皆さんありがとう!

さらに、仙台で無農薬食材のレストランを経営していたのですが、放射能汚染のためドイツに避難して来たご家族の→「日本から避難してきた理由」と題するスピーチも日独両語で掲載されました。
実は、ドイツにはフクシマ事故後にかなり多くの日本人が「原発汚染難民」として、避難してきたり移住しています。背景はそれぞれ異なっていますが、いずれも深刻な放射能汚染が原因であることは同じです。そのひとつのご家族の貴重な訴えです。


上記ブログから、地方紙の報道をお借りしておきます。翻訳は同ブログで読めます。

Rheinische Post 26. August 2012
 以上は8月29日追加。

 


2012年8月24日金曜日

114:ついに脱原発法案実現へ一歩/子どもを外した野田首相との面会はドジョウに念仏

8月22日の午前と午後に永田町であった二つのことについて書きます。

まずは、同日夕刊各紙で伝えられていますが、市民運動の高揚を背景に、ついに脱原発法制定が実現化し始めました。これは1988年に高木仁三郎氏らがいったん提起して挫折した日本の脱原発運動の意思がおよそ四半世紀を経て、ついにして甦るものです。

この日午前、衆議院議員会館での「脱原発法制定全国ネットワーク」の記者会見の様子を見ておきましょう。そこで提案のあった法案の要綱案はまだネットでは見られないので、その内容の検討はここでは出来ませんが、とりあえずはこの歴史的なスタートの記者会見を記録し、次回でそこにいたる長い前史を振り返ります。

多くの報道から22日夕刊の→東京新聞の報道が充実していますので、以下すっかりお借りします。(Danke,Tokyo Shimbun!

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脱原発法制定へ始動 大江健三郎さんら 全国組織を設立
2012822 東京新聞夕刊
脱原発法制定全国ネットワーク設立の記者会見であいさつする代表世話人の大江健三郎氏(中)ら=22日午前、東京・永田町の衆院第1議員会館で(中嶋大撮影)


作家の大江健三郎さんや前日本弁護士連合会会長の宇都宮健児さんら作家や弁護士らでつくるグループが二十二日、東京・永田町の衆議院第一議員会館 で記者会見し、二〇二五年度までに全原発の廃止を実現するための「脱原発基本法」制定に向け、各政党や国会議員に働きかける方針を表明した。
 
 グループは「脱原発法制定全国ネットワーク」で同日設立された。大江さんらのほか、作家の瀬戸内寂聴さん、音楽家の坂本龍一さん、福島県南相馬市の桜井勝延市長、茨城県東海村の村上達也村長らが代表世話人に名を連ねる。
 
 グループが作成した法案の要綱案は、廃炉の時期を「遅くとも二〇二〇年度ないし二〇二五年度までのできるだけ早い時期」と明記。原発の新増設禁止のほか、運転期間を例外なく四十年とすることなどを盛り込んだ。
 
 また、原発は事故が起きれば無限大の被害が発生する可能性があり、一度に大量の電源を失うことなどから、「エネルギー安全保障上、極めて脆弱(ぜいじゃく)なシステム」と指摘。原発に代わる電力の安定供給のため、再生可能エネルギーの活用などが重要だとした。
 
 グループは、超党派による議員立法を視野に今国会中の法案提出を目指す。提出が間に合わなかった場合は総選挙の際に、全ての候補者に法案を送り、賛成か反対かを問うとしている。
 
 代表世話人の一人、河合弘之弁護士は「官邸前などでの市民運動の盛り上がりがなければ、私たちの今回の提案はあり得なかった」と述べた。
 大江さんは「市民が動けば、脱原発基本法をつくることができる。きょうはその出発点だ」と期待を込めた。

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この日の午前中の1時間17分の記者会見のすべてはネットでは二つ記録されています。
IWJ:→「脱原発法制定全国ネットワーク設立記者会見」 



同じ内容ですが、音声は後者の方が優れています。わたしの見解では歴史的なものになると思いますのでどちらかを是非ご覧のうえで以下をお読み下されば幸いです。

また同日の午後には、首相官邸での反原発首都圏連合と野田首相の面会があり、その方の報道のほうが大きく扱われています。
しかし、この面会の意義は、首相が合わざるを得なくなったこと以上のものではなく、予定の20分が30分になって、運動側が言いたいことの最低限のことだけは面と向って述べ、野田首相の馬耳東風、馬の耳に念仏のさまを確認しただけでした。
それでも、対面時の運動側と首相の表情を確認できるのは滅多に無いことですから30分の録画をご覧ください。終始無表情な野田首相にとっては面会はドジョウに念仏でした。

You Tube:→反原連vs野田総理ノーカット版

この動画に付けられた解説に、以下の記述があります。大変重要な指摘ですので記録しておきます。
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今日のこの面談に関して、市民の間では、福島の代表者を入れるべきだといった声が出ていたが実現しなかった。郡山で子どもたちの集団疎開を求めて裁判を起こしている「福島­集団疎開裁判」は独自に記者会見を開き、代表・井上利夫さんが「これまで、原発いらない福島の女たちなどが度々面談を申し入れてきたにも関わらず実現していない」として、­福島の子どもたちを第一に据えるべきだとの考えを示した。 
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そもそも、首相官邸前の抗議デモは「子どもを守れ、未来を守れ」が最大かつ最終の目標であるはずです。再稼働反対も人事案撤回もそのための当面のスローガンです。盛り上がる抗議を背景にようやく実現した会見に、その主役である「フクシマの子どもたち」の代表が参加できなかったことは、運動側の大きな失点です。少なくとも運動側は、なぜそうなったかについての経過を明確に説明するべきでしょう。

それでないと信用が一挙に失墜する恐れがあります。子どもが外されたこの会見の様子を見て、最も怒り失望しているのはフクシマの子どもたちとその母親たちであることは間違いありません。
ドイツでもそうですが、成功する反原発運動の先頭には必ず、若者と子どもの姿があります。なぜなら彼らの存在そのものが目的だからなのです。それを忘れてはなりません。
もし子どもの姿があれば、この 面会はドジョウに念仏では終わらなかったでしょう。

以上、とりあえず22日の午前と午後にあった二つの出来事を記録しておきます。この二つの出来事、脱原発法と市民運動は日本が脱原発を実現するうえで不可欠の車の両輪なのです。上記の河合弁護士と大江氏の言葉にあるように、どちらを欠いても決して脱原発社会は実現できません。
次回はこのことについて歴史的な体験を述べます。






2012年8月22日水曜日

113:ベルリンとデュッセルドルフでの福島連帯行動のお知らせ/Benefizkonzert für Fikushima in Berlin,Künstleraktion in Düsseldorf am 25 August 2012

 今週末8月25日(土曜日)、下記のようにドイツではベルリンとデュッセルドルフでフクシマ連帯の行動が行われます。
音楽家の多いベルリンでは、このグログでもおなじみのドイツ放射線防御協会によって行われている福島の→市民放射線測定所(CRMS)への寄付を募るため、日独のベテランの音楽家たちがフクシマのための慈善演奏会を行います。

またドイツでは日本人が最も多いデュッセルドルフでは、日本の脱原発運動の連帯活動を世界に広めるために、同地の日本人学校の卒業生たちが→「脱原発日本SAYONARA GENPATSUデュッセルドルフ」を立ち上げ、まったくの手弁当でアートパフォーマンス・デモを行います。

両地の近隣のみなさま、土曜日には誘い合ってご参加下さい。
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 ベルリン(ドイツ語のみ)

     Benefizkonzert für Fukushima
     Werke von  W.A. Mozart, G. Gershwin, Y. Nakata
               u.a.

               Mit
      Johanna Knauth, Mieko Kanesugi, Miyuki Motoi,
      Elisabeth Umierski, Mari Watanabe, Dieter Zahn


    Samstag, 25.August 2012, 16 Uhr
    Pfarrsaal der  Kirchengemeinde Maria unter dem Kreuz  -
          St. Marien in Friedenau
         Bergheimer Str. 1, 14197 Berlin

         Eintritt frei  -  Spenden erbeten
   Das Konzert findet zugunsten von CRMS Fukushima statt.

Seit dem 11. März 2011 sind die Menschen in Japan gezwungen, mit erhöhter Strahlung zu leben. Unabhängige Messungen zeigen, dass die Strahlenwerte von denen der Regierung abweichen. Die tatsächliche Verstrahlung ist schwer einzuschätzen. Jeder muss sich bemühen, die Strahlenbelastung zu minimieren. So wurde diese Messstelle von Bürgern gegründet, um Bürger zu schützen.
Für Messgeräte, Labortests, Ausbildung und Verwaltung benötigen sie stets finanzielle Unterstützung.
           Helfen Sie uns, die
     " Citizens' Radioactivity Measuring Station ( CRMS) "
            zu unterstützen.

     Alle Spenden werden unverzüglich auf das Konto der
      Gesellschaft für Strahlenschutz e.V. überwiesen.
            Postbank Hamburg
            (BLZ 200 100 20)
           Kontonummer: 29429208
          Stichwort: " Fukushima Projekt 47 "

          Organisation: Mari Watanabe-Tilman
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デュッセルドルフ(日独語の呼びかけチラシです)



2012年8月13日月曜日

112:ベルリンのヒロシマ忌/田邊雅章氏を迎えて平和のためのコンサート/厳しく「絆はありません」



"Konzert für den Frieden" Residenz des Botschafters von Japan,Berlin 6.August 2012,
  一週間遅れの報告となりますが、先のヒロシマ忌の8月6日、ベルリンの日本大使公邸で、ここ数年恒例となった「平和のためのコンサート」が行われました。昨年は大震災と原発事故の後であったため、日 本の援助に力を貸してくれた多勢のドイツ市民も招かれ、大変な混雑でした。
 
 4回目の今年は主にドイツ政府と政党関係者、そして在独外交官ら約百人が招かれ、→ミュンヘン・シューマン弦楽四重奏団のみなさんによる素晴らしい演奏で、ヒロ シマ・ナガサキの犠牲者を追悼し、核廃絶を願うにふさわしい、厳粛で落ち着いたコンサートとなりました(写真上)。
田邊雅章氏ベルリン日本大使館講演 6August2012
ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲第8番「ファシズムと戦争の犠牲者への追悼」から始まったこのコンサートが、特別に心にしみる厳粛なものになったのは、その前にまず日本政府の非核特使として中根猛大使の招待で広島から、この日ベルリンを訪問された→田邊雅章氏の講演と記録映画の上映があったからです。

 田邊氏のお母さんと一歳の弟さんは67年前のこの日、爆心地、今の原爆ドームの東隣の生家で「5千度を超す熱線と爆風が襲いかかり」文字どおり跡形もなく亡くなっています。出勤途中に被爆したお父さんも9日後に亡くなり、おばあさんと数日前から疎開中であった8歳の田邊少年は、2日後に家族を捜すため帰り、焼け跡で3日間を過ごしたため「入市被爆者」となったのです。
この時のことを氏はこのように述べられました。

二百年以前に建てられた我が家、日本の伝統的家屋は、跡形もなくガレキの山となり、焼け跡の熱が残る地面には、産業奨励館で働いていた人々の身体の一部が散乱していました。そこで見たもの、臭ったもの、触ったものの不気味さは今でも忘れることができません。
 後で判ったことですが、母と弟は、朝食の後片付ける台所で犠牲となり、今も行くへ不明で、原爆ドームの側の地面深くに眠っています。せめて苦しまないであの世に行ってほしかった(と)、祈らない日はありません。あきらめ切れずに、いつか帰ってくるのでは(と)、二人の葬式は今に行っておりません

現在では世界遺産となった原爆ドームの敷地内となっている田邊氏の生家の跡は、お母さんと弟さんの墓地なのです。ドームは墓碑なのでしょうか。
おばあさんも被曝と生活苦で9年後に亡くなり、ひとりぼっちになった田邊氏も、残留放射能の影響で苦しみつつ「なんとか生き延びてきた」という、その後の人生についてはつぎのようです。

原爆によりすべてを失った私は、家族のいない寂しさ、突然訪れた生活苦、被爆者への差別やいじめ、そして原爆への怒り、憎しみ、それらから逃れるため、それからの人生は、自らの被爆体験をひたすら隠してきました。忘れよう、思い出したくない(と)、原爆に背を向けて50年がすぎました

ところが、60歳になるころ、原爆ドームが世界遺産となり注目されるようになりましたが、被曝以前の情報がまったく伝えられていない事実を前に、田邊氏には、消されてしまった生まれ育った家と街「私のふるさと」の記憶が甦ってきたようです。
そこで、→職業である映像作家としての最新の技術を駆使する事業に取りかかります。
 『映像による爆心地の復元事業』です。

それによって「原爆炸裂の下には、伝統的な町並みがあり、普通の市民生活があり、多くの一般市民が、逃げるいとまもなく『何が起こったのか判らないまま』無惨にも犠牲になった事実を伝えた」のです。

8歳でふるさとのすべてを失った少年は、50年を経て動員した記憶を武器に、それまで怒り、憎み、背を向けてきた原爆に向かい合い、立ち向かうことを始めたのです。
何が破壊され消されてしまったかを知ることなしには「ヒロシマの実態と真実」は認識できはしないと訴え始めたのです。

この「被爆者自らが制作し、被爆者自身の証言で構成された」→爆心地記録映画は、国連や世界各地で注目されてきており、田邊氏も日本政府の非核特使として、74歳の病身を押して世界各地を訪問し講演し、記録映画を上映されています。
田邊氏により復元された爆心地のふるさと広島市猿楽町
2009年、オバマブームが起こった時に、日本の民放が田邊氏の事業をルポした記録を見ることができます。
『最新CG技術で・・あの日のヒロシマ・田邊雅章氏』と題されています→(1)(2)がそれです。是非見ていただきたいルポタージュです。

さて、講演で田邊氏はフクシマ事故に関して次のように語られました。

このたび、わが国では、未曾有の原子力発電所の事故を起こしました。目的は異なりますが、結果として人間は再び過ちを繰り返したのです。『核と人類は共存できない』現実を突きつけました。この現実を、私たちは真摯に受け止めなくてはなりません

そのうえで、新たな「核テロ」の脅威がでており、人類が生き延びるために「核廃絶」は人類の共通課題であると強調したうえで、ふたたび田邊氏は67年前の広島について語られました。

最後に被爆直後の光景を紹介します。『家族はきっとどこかで生きている』はかない希望を抱いて、市内に散在した原爆被災者の収容施設をめぐりました。そこで目にしたのが、悲惨な若い母親と赤ん坊の姿でした。すでに息絶えて首がたれている母親の乳を無心に吸い続けている赤児、それからどのくらい生き延びたことでしょう。
その逆もありました。焼け焦げた赤児を抱いて、無心に子守唄を歌う母親、わすれることができません。子供心に、何故、どうして、このようなことが起きたのだろうか。涙が止まりませんでした。どうか皆さん、ご自分の家族に置き換えて想像して下さい。他人事ではないのです。再びあってはなりません、繰り返してはなりません


あらかじめ準備された原稿を読みながら、田邊氏は静聴する人々をの前で、何度も涙を拭われました。

しかし、ここで講演は終わりませんでした。原稿にはない話しを続けられたのです。
広島の平和公園内だけでも、いまだに行方不明の犠牲者5000体が埋まっていること。そんなことは知られていないこと。
また、原爆は多くの孤児を生んだこと。彼らの多くが、家庭も持たず年老いて、孤児のままひとりで寂しく亡くなっていること、このような知られていない事実を挙げて「原爆は終わっていないのです」と述べる田邊氏の声は怒りにふるえていました。
Schumann Quartett Münchenの演奏

 終わりに、田邊氏はつい一週間前に聴いたという話をされました。
 8月6日、原爆が投下された8時15分にある父親が、広島市内に住む若い娘さんと電話で話していたのです。
 突然切れた通話に驚かされた父親が、娘さんを探し出したのですが、白骨化した遺体は受話器を握ったままであったとのことです。
ここで、涙を拭ったのは田邊氏だけではなかったのです。

 このようにして、ヒバクシャの実体験の報告に続いた、ドイツでも一流の弦楽四重奏の室内楽が、犠牲者への厳粛な追悼と鎮魂の音色となったのです。聴衆はヒロシマの惨禍を現在のこととして聴いたのです。

中根猛大使と田邊雅章氏ベルリン大使館で
コンサートが終わり、中根猛大使夫妻によるレセプションの場で、わたしは改めて、田邊氏に、フクシマ事故についての考えを質問しました。

 氏の返事の要旨は「講演で述べたようにフクシマでもヒロシマと同じことが起こっています。多くのふるさとが失われてしまっています。事故の後に、わたしのところにふるさとの街を映像で復元したいとの相談がありますが、私は断っています。理由は、ふるさとの復元は自らの力でしか出来ないからです。他人の力に頼るのは間違いです」
そして「これはマスコミに話すと腰が引けてしまい誰も書かないのですが」との前置きに続き「震災と事故の後で『絆』などと言っているでしょう。そんなものはないのです。こんども災害後に日用品の買い占めなどが起こっています。その方が現実なのです。誰も私を助けてくれませんでした。自力だけで生きてきたのです。自分でやるしかないのです」
「そのお考えを書いても良いですか」と私の問いに、「いいですよ、楽しみにしています」と話される田邊氏の厳しい表情に、初めて微笑みが現れました。

「絆などは無い。誰も助けてはくれない。自力でやれ」、この田邊氏の言葉は、ヒロシマのヒバクシャからの、フクシマの被災者への厳しい励ましの言葉として受け止めるべきでしょう。
また被災者でない援助者にとっての心構えを指摘していると私は受け止めました。援助したいと望む者も、助けることができるのは被災者自身だけであることを自覚した上での援助をすべきなのです。体験者の言葉は重いのです。

この日、田邊氏のお母さんと弟さんの67回忌ともなった心のこもった企画をされた、新任の中根猛在ベルリン特命全権大使は、→外交官経歴からしても核軍縮問題に長くかかわっておられ、冒頭の挨拶で、日独両国が先頭になって核軍縮を実現しなければならないと主張し、2006年に横浜の国連軍縮会議で田邊氏の講演を聴き、感銘を受けたことからドイツの4都市での講演に招待されたことを話されています。

先に報告しましたように、ここベルリンの大使館には7月29日には脱原発を訴える→日独市民のデモが押し掛けましたが、田邊雅章氏の「原爆であれ原発であれ核と人類は共存できない」とする講演が、その訴えへの大使からの一つの回答になっていると考えています。

少なくとも中根大使は野田首相よりははるかに立派です。

レセプションでは、わたしは、田邊氏が制作された広島復元の記録映画がドイツでの平和教育の教材になるのではないかと、日本側だけでなく、ドイツ側国務大臣や 政治家にも話しかけてみました。

この日は夏休みのため、日本の取材陣は多くありませんでしたが、翌7日の日本の朝には共同通信、TBS、NHKが全国へ報道しています。

参考のために以下記録しておきます。
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共同通信  


【ベルリン共同】ベルリンの在 ドイツ日本大使館で6日、被爆者で映像作家の田辺雅章さん(74)=広島市=の講演会が開かれた。政府の非核特使を務める田辺さんは「きょうは忘れられな い日。広島はこの世の地獄を体験した」と述べ、外交団を中心に集まった約100人の出席者に核廃絶を訴えた。
焼け焦げた赤ちゃんを抱き、無心に子守歌を歌う母親の姿が忘れられないと時折言葉を詰まらせながら、当時の様子を振り返った。東京電力福島第1原発事故についても触れ「核と人類は共存できないとの現実を突きつけた」と語った

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TBS

→被爆した映像作家CGで爆心地を再現 

 

広島への原爆投下から6日で67年となりましたが、ドイツ・ベルリンでは、自らも被爆した映像作家がコンピューターグラフィックスで爆心地を再現し、被爆体験を海外に発信する政府の「非核特使」として講演を行いました。

 原爆投下前の広島中心部。料亭など繁華街の姿や市民生活などが、当時の住民の証言をもとにしてコンピューターグラフィックスで再現されています。

  広島原爆の日の6日、ドイツ・ベルリンで、映像作家の田邊雅章さんが政府の「非核特使」として講演を行いました。田邊さんは自らの広島での被爆体験を伝え たあと、被爆者たちのインタビューに再現CGを交え制作した記録映画を上映し、原爆「以前」と「以後」で何が失われたのか、その恐ろしさを訴えました。

 「(原爆)以前のヒロシマがどんな街で、どんな人々が、どんな暮らしをしていたか、ほとんどご存じないんですね。非常に熱心に聞いていただいて、ヒロシマの真実を伝えることができました」(非核特使 田邊雅章さん)

 講演後には、平和のためのコンサートも行われ、会場は非核への願いに包まれました。(07日07:48)


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NHK

→広島の被爆男性ドイツで体験語る

広島原爆の日に合わせて、ドイツの首都ベルリンで、広島市の被爆者の男性が当時の体験を語り、核兵器の廃絶を訴えました。
ベルリンを訪れたのは、広島市の映像作家で、7歳のとき疎開先から原爆投下直後の市内に戻って被爆 した田邊雅章さん(74)です。田邊さんは6日、「ヒロシマ通り」と名付けられたベルリン市内の通りに面して建つ日本大使館の公邸で、ベルリン駐在の各国 大使や政府関係者らおよそ100人の出席者の前で、みずからの体験を語りました。
田邊さんは、原爆ドームの隣にあった自宅が原爆でがれきの山となり、両親や弟を失った体験を語り、「当時の生活は口にすらできないほど過酷で残酷だった」と振り返りました。
そして「自分の家族に置き換えて想像してください。決してひと事ではないのです」と語りかけて、原爆の悲惨さや核兵器の廃絶を訴えていました。
このあと、田邊さんらが制作した、当時の広島市内の様子を再現した記録映画も上映され、訪れた人たちは原爆投下直後の街の様子や、住民の証言などを真剣な表情で見ていました。
田邊さんは、「原爆によって、今も多くの人々が苦しんでいることはあまり知られておらず、こうした真実を伝えていくことが、私の役割と考えています」と話していました。

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なお、ある日本人在住者の方による、ベルリンに先駆けて→ライプチッヒで行われた公演の報告があります。

ここではこのテーマには立ち入りませんでしたが、ドイツに長く住んでいる方として、講演を高く評価しつつ「加害と被害のバランスが崩れているのでは」との指摘があります。ぜひともご参考までにご覧ください。
この「加害と被害の歴史認識」に関する日本社会の決定的弱さに関しては、拙稿→「フクシマが日本社会に問いかけているもの」をご覧ください。