2012年4月12日木曜日

85;ギュンター・グラス、イスラエルの入国禁止措置を東独の秘密警察と似ていると回答

先の第84回で伝えました4月8日のイスラエル政府の入国禁止措置に対して、ギュンター・グラス氏は4月12日の「南ドイツ新聞」の文化欄に短い回答を寄せました。これは散文詩ではありませんが、以下に訳出しておきます。

4月4日のイスラエル批判詩(第83回に翻訳とともに紹介)以来、ドイツとイスラエルでは「イスラエルの先制攻撃の意図だけを強調し、ホロコーストを否定しイスラエルを地図から消すと主張するイラン政府の脅威を指摘しないのは片手落ちであり、そのため彼は反ユダヤ主義に口実を与えている」との批判が多くでています。この批判は私にも納得できるものです(良い例が→ミシャ・ブルムリック)。また、入国禁止措置はイスラエルでもリベラル派から多くの厳しい批判がでています(例えば、→ヨラム・カニイク「作家をボイコットする者は、終わりには焚書をする」)。
また、イスラエルの内務大臣と作家同盟などは、グラスからノーベル賞を剥奪すべきだと要求しましたが、スエーデンのノーベルアカデミーは直ちに、それを→根拠にならないとして拒否しています。

今回の「回答」で、グラスは「今もなおイスラエルの思い出は生きている」と述べていますが、彼が1967年 イスラエルに招待され、歓迎された際の写真です。イスラエルの新聞が先日掲載しています。イスラエルのノーベル文学賞受賞作家シュムエル・ヨーセフ・アグノンと対談している時のものです。
Günter Grass (l) bei einem Treffen mit dem israelischen Literaturnobelpreisträger Schmuel Josef Agnon.1967 
(© dpa)

その一方で、グラス氏は正しいとする意見も、ちょうどドイツ全国の80の都市で行われた恒例の「復活祭平和行進」などで強調されています。
ギュンター・グラスを支持する復活祭平和行進 2012年4月9日.フランクフルト・マイン 写真:dpa
 いずれにせよ、グラスの最大の懸念が、多くの核兵器を保持しておりながら、核拡散防止条約に加盟せず、国際機関の管理外にあるイスラエルの危険性にあることを、この回答で再度明確に表明されています。それを無視し続けている西側の偽善をさらに強調したものです。

また、先月就任したばかりのドイツのガウク大統領のイスラエル訪問が、おそらく5月にも計画されていると報道されていますが、このグラス問題がそこでどう扱われるかが焦点になりそうです。なぜなら東独出身のガウク氏は、統一後に旧東独国家保安省の記録を管理保存し公開する機関の責任者を長く務めた人物でもあるからです。回答にあるグラスの東独秘密警察による監視の記録もそこにあります。

以下電子版掲載分からグラス氏の本文のみの翻訳です;

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  当時も今日のように=最近の決定に対する私の回答

  

 三度、私は入国を禁止されたことがある。ドイツ民主共和国、略称DDRが、姓はミールケという国家保安大臣*のご命令で行ったのが始まりだ。そしてこの人物こそが数年後に禁止を解除しはしたが、そこで予期される入国に際しては「破壊的要素として」格付けした人物として私への増強した監視を指令したのだ。
妻と私が1986年に数ヶ月間、西ベンガリの首都カルカッタに生活したとき、私たちは「望ましからざる」との理由でビルマへの入国が拒否された。この二つの件は独裁制においての通常な実務として遂行された。

 しかし今、イスラエルという民主制の国の内務大臣が、私を入国禁止で罰して、彼によって下された強制措置は=その語り口からして=ミールケ大臣を想起させる。とはいえ彼は、私の何度ものイスラエルへの旅での有益な想い出を生き生きと保つことを妨げることはできはしない。

 いまもなおユダヤの砂漠の静寂はそこにある。いまもなお私はイスラエルの国に消しがたく感謝している。いまもなお私は私の故郷ダンチッヒのユダヤ教会の法律顧問エルヴィン・リヒテンシュタインと対話をしている。そしていまもなお友人たちとの果てしない夜の議論が耳に残っている。彼らは(勝利の戦争の後に**)占領者としての彼らの国の未来について争っていたが、みなはしかし、四〇年後に脅威的な危機にまで育つことになった憂慮に満たされていた。

  DDRはもうない。しかし管理されない規模の核大国として、イスラエル政府は専断を自明としており、これまでいかなる警告も届いてはいない。=ただビルマだけに小さな希望が芽生えている。

(訳注)*東ドイツの国家保安省(秘密警察諜報機関、いわゆる「スタージ」)の大臣エーリッヒ・ミールケ。ドイツ統一後の1993年にワイマール時代の警察官殺害の容疑で懲役6年の有罪判決。「破壊的要素」はスタージの内部用語で破壊し排除する対象とされた人物ないしは組織などを示す。
  **1967年のいわゆる「六日戦争」。この時、イスラエルは先制攻撃で大勝した。

2012年4月12日「南ドイツ新聞」掲載 (翻訳;梶村太一郎)




「南ドイツ新聞」→電子版の原文は以下のとおりです:

Damals wie heute - Meine Antwort auf jüngste Beschlüsse

Dreimal wurde mir die Einreise in ein Land verboten. Die Deutsche Demokratische Republik, kurz DDR genannt, machte auf Geheiß des Ministers für Staatssicherheit, namens Mielke, den Anfang. Und er ist es gewesen, der Jahre später das Verbot zurücknahm, jedoch für die zu erwartenden Einreisen der "als zersetzendes Element" eingestuften Person verstärkte Observierung angeordnet hat.
Als meine Frau und ich im Jahr 1986 mehrere Monate lang in der westbengalischen Hauptstadt Calcutta lebten, wurde uns mit der Begründung "unerwünscht" die Einreise nach Birma verweigert. In beiden Fällen wurde die in Diktaturen übliche Praxis vollzogen.

Jetzt ist es der Innenminister einer Demokratie, des Staates Israel, der mich mit einem Einreiseverbot bestraft und dessen Begründung für die von ihm verhängte Zwangsmaßnahme - dem Tonfall nach - an das Verdikt des Ministers Mielke erinnert. Dennoch wird er mich nicht daran hindern können, meine mir hilfreichen Erinnerungen an mehrere Reisen nach Israel wachzuhalten.

Immer noch ist mir die Stille der Judäischen Wüste gegenwärtig. Immer noch sehe ich mich dem Land Israel unkündbar verbunden. Immer noch befinde ich mich im Gespräch mit Erwin Lichtenstein, dem letzten Syndikus der jüdischen Gemeinde meiner Heimatstadt Danzig. Und immer noch sind mir die endlos nächtlichen Dispute mit Freunden im Ohr. Sie stritten sich (nach siegreichem Krieg) über die Zukunft ihres Landes als Besatzungsmacht, waren aber auch voller Sorge, die sich vierzig Jahre später zu einer bedrohlichen Gefahr ausgewachsen hat.

Die DDR gibt es nicht mehr. Aber als Atommacht von unkontrolliertem Ausmaß begreift sich die israelische Regierung als eigenmächtig und ist bislang keiner Ermahnung zugänglich. - Allein Birma lässt kleine Hoffnung keimen.

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