http://fujihara.cocolog-nifty.com/tanoshi/2011/11/post-2df2.html
以下その全文を引用させていただきます:
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公益財団法人 世界平和研究所 会長
中曽根 康弘 殿
公開質問状(旧大日本帝国海軍「設営隊慰安所」についてのおたずね)
2011年11月8日
高知市升形9−11
平和資料館・草の家館長
初めてお便りさせていただきます。
中曽根康弘先生におかれましては世界平和のために日々、研究を積み重ねられていることとご察しいたします。
私もアジア・太平洋戦争のとき、アメリカ軍の残忍な高知への空襲下にいました。その空襲で母と妹を殺されました。いまは、平和資料館・草の家館長としてアジア・太平洋戦争の実相について研究をしています。その関係で旧大日本帝国軍隊の慰安所のことについても調べています。
中曽根 康弘 殿
公開質問状(旧大日本帝国海軍「設営隊慰安所」についてのおたずね)
2011年11月8日
高知市升形9−11
平和資料館・草の家館長
初めてお便りさせていただきます。
中曽根康弘先生におかれましては世界平和のために日々、研究を積み重ねられていることとご察しいたします。
私もアジア・太平洋戦争のとき、アメリカ軍の残忍な高知への空襲下にいました。その空襲で母と妹を殺されました。いまは、平和資料館・草の家館長としてアジア・太平洋戦争の実相について研究をしています。その関係で旧大日本帝国軍隊の慰安所のことについても調べています。
本日は、先生にお願いがあって筆をとらせていただきました。旧大日本帝国海軍の「慰安所」について、ぜひおききしたいのです。
先生は、かつて、「衆議院議員 中曽根康弘 (海軍主計大尉)」の名で「二十三歳で三千人の総指揮官」という題名の回想録を書いておられます。(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部 1978年 90〜98ページ)
先生は、かつて、「衆議院議員 中曽根康弘 (海軍主計大尉)」の名で「二十三歳で三千人の総指揮官」という題名の回想録を書いておられます。(松浦敬紀編著『終わりなき海軍』文化放送開発センター出版部 1978年 90〜98ページ)
先生は、そのなかで次のように述べておられます。
・ 海軍主計中尉だった1941年11月26日、設営隊の主計長を命ぜられた。部隊を編成し、11月29日に出航した。目的地は、フィリピン、インドネシアだった。
・ 12月8日の開戦と同時に、ダバオに突入した。早速、飛行場設営の仕事が始まった。
・ その後、バリクパパンに進入した。
・ 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。」
おたずねしたいのは、ここで書かれている慰安所のことです。
・ 海軍主計中尉だった1941年11月26日、設営隊の主計長を命ぜられた。部隊を編成し、11月29日に出航した。目的地は、フィリピン、インドネシアだった。
・ 12月8日の開戦と同時に、ダバオに突入した。早速、飛行場設営の仕事が始まった。
・ その後、バリクパパンに進入した。
・ 「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。かれらは、ちょうど、たらいのなかにひしめくイモであった。卑屈なところもあるし、ずるい面もあった。そして、私自身、そのイモの一つとして、ゴシゴシともまれてきたのである。」
おたずねしたいのは、ここで書かれている慰安所のことです。
最近、私は、東京都目黒区の防衛省防衛研究所の戦史研究センター史料室にある「海軍航空基地第2設営班資料」(防衛研修所戦史室編)を読みました。
大日本帝国海軍航空基地第2設営班(隊長・矢部雅士海軍技師)の工営長(海軍技師)だった宮地米三氏がまとめたもので、1962年4月に、その文書の複製がつくられ、それを同研究所が収蔵してきたものです。
表紙をあわせて26ページで、文書の中身は、㈰同班の動きの大要を書いた縦書きのもの、㈪その詳細を書いた横書きのメモ、㈫地図などです。
先生が防衛庁長官をされていた時期(1970年1月14日〜1971年7月5日)にも、この文書は、ここに所蔵されていたと推測します。
この文書の記述にしたがって、質問させていただきました。
1、この文書には「第二設営班 矢部部隊」の編制が記されていて「主計長 海軍主計中尉 中曾根康弘」と出てきますが、これは、先生ご自身のことでしょうか。
大日本帝国海軍航空基地第2設営班(隊長・矢部雅士海軍技師)の工営長(海軍技師)だった宮地米三氏がまとめたもので、1962年4月に、その文書の複製がつくられ、それを同研究所が収蔵してきたものです。
表紙をあわせて26ページで、文書の中身は、㈰同班の動きの大要を書いた縦書きのもの、㈪その詳細を書いた横書きのメモ、㈫地図などです。
先生が防衛庁長官をされていた時期(1970年1月14日〜1971年7月5日)にも、この文書は、ここに所蔵されていたと推測します。
この文書の記述にしたがって、質問させていただきました。
1、この文書には「第二設営班 矢部部隊」の編制が記されていて「主計長 海軍主計中尉 中曾根康弘」と出てきますが、これは、先生ご自身のことでしょうか。
2、同班は、1941年12月20日、ダバオに上陸して大日本帝国海軍313基地に陣取っています。文書の「313基地(ダバオ) 作業」の項目に「慰安所 組立家屋建設」の記述があります。これは、どこに(例えば、313基地内にとか……)作ったのでしょうか。
3、同班はダバオでの設営後、直ちにバリクパパンへ移動したので、慰安所を使用する日時はほとんどなかったと思われます。いったい誰のために慰安所を作ったのでしょうか。
4、このダバオの慰安所では、どのような人たちが従事したのでしょうか(例えば、ダバオの女性とか、日本から来た女性とか……)。
5、同班は、1942年1月24日、バリクパパンに上陸し、海軍322基地に陣取りました。この文書の「322基地(バリックパパン) 作業」の項目に「慰安所(設営班用)(組立家屋)建設」の記述があります。
また、1942年3月11日の記録には「慰安所(設営班)開設」の記述があります。
さらに、「322基地(バリックパパン) 完了時の状況」と題する地図に「設営班慰安所」が描かれています。それを見ると、「設営班慰安所」全体は垣で囲まれており、そのなかに組立家屋、接収した民家、天幕、トイレがあることが分かります。
これらの記述は、先生の記憶とも合致しますでしょうか。
6、文書には、同班が組立家屋用の資材を日本から運んで行ったことが書かれています。ダバオとバリクパパンの慰安所は、この日本から持っていた資材で作られたのでしょうか。
7、二つの慰安所の設置は、同班が日本を出発したときからの計画だったのでしょうか。
8、この文書には「バリクパパンでは□(原文では「飛行機」の海軍符号)場の整備一応完了して攻撃機による蘭印作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風で又日本出港の際約二ケ月の旨申し渡しありし為皈心矢の如く氣荒くなり日本人同志けんか等起る様になる 主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」と述べられています。
これは若き日の先生の役割をのべたものだと思われます。先生ご自身が「土人女を集め」られたのですか。あるいは先生が集めるよう指示されたのですか。その場合、具体的に集めてきたのは誰でしょうか。
9、また、どのようにして集め(例えば募集、徴用など……)、どのようなことに従事したのでしょうか。
10、先述の回想録のなかには「私はただちに経理部にすっとんでいき、七十万円分の軍票をうけとってきた。現在の金額にすると数十億円くらいのものだ」との記述があります。先生はこの軍票を持って日本を出航されたわけですが、慰安所ではこの軍票が使用されたのでしょうか。
11、旧大日本帝国軍隊の慰安所の問題は、国際的にも批判を受けてきましたが、先生は、いまの時点で、帝国軍隊の慰安所の問題について、どのようにお考えでしょうか。
私たちは日本の未来のために、アジア・太平洋戦争の歴史のひとこまを明らかにしていきたいと思います。先生は、その事実を語っていただける方だと信じています。
失礼ですが、期限を切って、11月30日までに、文書でご回答をいただけませんでしょうか。質問とご回答の内容はそれぞれ公開させていただきたいと思います。どうか宜しくお願いいたします。
以上
以上の質問内容からすると、中曽根主計大尉はバリクパパンだけでなく、どうやらその前に占領したダバオでも用意周到に早々と慰安所を設営したようですね。
前後関係からすると、太平洋戦争開戦時にはちゃんと慰安所設営の資材まで準備して兵員武器とともに輸送したことがわかる資料のようです。資料全体も公表されることを望みます。
わたしも世界平和研究所会長の中曽根康弘氏の出番だと思うのですが。誠意ある回答を期待いたします。
そうでなければ、いづれ国会で、さらに外交でまた問題となるでしょう。
「慰安婦問題」とは国際問題であり、国際問題とは徹底的な問題なのです。そのことを中曽根氏は敗戦で、また総理時代には靖国参拝問題で体験しているはずです。都合の悪いことにほおかむりをすると、何時までたっても解決せず、日本の恥の上塗りとなるだけです。
氏が誠実な回答をなさるか否か注目しましょう。もっとも奇蹟を待つに等しい期待ですが。
さて、質問の(10)に出て来る軍票ですが、この問題もいまだに「香港軍票問題」などとして解決していません。
若い中曽根氏がうけとって占領地でばらまいた軍票とは、「昭和16年軍用手票」と正式には呼ばれるもので、太平洋戦争開戦前に日本政府名で発行されたものです。
ごていねいに占領地の貨幣単位をそのまま使い、写真のように蘭領東印度でばらまいたものには、椰子やバナナのデザインで、オランダ語でグルデンを盗用しています。下部には小文字で「大日本帝国政府」とあり、「新たな帝国主義宗主国」であることの証文のようなものです。
中曽根主計大尉が大量にばらまいたこのような軍票は日本の敗戦で紙くず同様になってしまい、占領地の人々に多大な損失を与えました。これもいまだに日本が残している未解決の戦争犯罪のひとつです。
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