2012年7月28日土曜日

106:「フクシマが日本社会に問いかけているもの」/小田実氏5周忌によせて

今年の7月30日は75歳で亡くなった小田実氏の5周忌になります。フクシマの後、わたしのような年配のひとで「彼が生きていてくれたら、あと10年は生きてほしかった」と思う人は少くないでしょう。
もうひとり、どうしても生きていてほしかった人物は高木仁三郎氏です。→以前にも想い出を書きましたが、彼はあまりにも若くして亡くなりました。健在ならば現在問題になっている原子力規制委員会の委員長に彼ほどふさわしい人物はいないからです。脱原発を願う圧倒的多数の日本人の意思を代表して、おそらく過酷事故を起こさせてしまった日本で、ドイツより早期の脱原発を実現する先頭に立っていることは間違いありません。

ここで紹介する以下の拙稿は、小田実氏が晩年に友人たちとともに立ち上げた→「市民の意見30・東京」からの依頼で最近執筆したものです。
これは、もとより追悼文ではありませんが、彼が健在ならば、どのような考えで何をしているかとの問いへの、わたしなりの考えです。小田実氏5周忌に際して、『市民の意見』の編集部の同意を得て掲載いたします。掲載写真もまったく同じものです。
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フクシマが日本社会に問いかけているもの
                            梶村太一郎
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 フクシマが日本社会に問いかけているものは何だろうか。端的に言ってそれは戦争の歴史認識に裏打ちを欠いた弱さを自覚することにあるとおもう。

 

ソ連崩壊を招いたチェルノブイリ事故

 
 かつて、ゴルバチョフ元ソ連大統領は回想録でチェルノブイリ原子力発電所事故はわが国技術が老朽化したことだけでなく従来体制がそ可能性を使い尽してしまったことをまざまざと見せつけた恐るべき証明であったそれは同時に歴史皮肉か途方もない重さでわれわれ始めた改革にはねかえり文字通り国を軌道からはじき出してしまった」と述べている。事故が、彼が始めたばかりの社会主義改革路線であるペレストロイカ政策を押し流し、ソ連邦体制の崩壊にいたった大きな要因であったとの証言である。
 
 ちょうど彼がこの回顧録を執筆している九〇年代前半に、わたしも日本の市民運動の仲間とベラルーシの被災地に被害者を訪ねたことが二度ある。そこでは子どもたちに甲状腺癌だけでなく、白内障などの本来なら老人性の疾病が頻発しており、内部被曝の恐ろしさに言葉を失った。南部の放棄された廃村の広大な農地に立ったとき、ちょうどチェルノブイリ方向からの暖かい南風が大地を這って来た。「この風が運んで来たのだ」と思った瞬間、足下から立っていられないほどの胴震いに襲われたことがある。以来、放射能汚染への恐怖はわたしには理屈を超えた身体的なものにもなっている。

 そこではまた、第二次大戦でベラルーシは人口と国土の三分の一を失い、ようやく人口が戦前の水準に回復したとたんに、原発事故で再び国土と人口の三分の一が汚染されたことを知った。しかも今度は数世代ではとても回復できないほぼ永久的な打撃だ。すなわちドイツ軍の侵略と破壊より質が悪い損失なのだ。この事実を体制が隠蔽して被害が拡大したことを、ソ連邦の市民は知ることになる。かつてドイツ侵略軍を撃退した体制が崩壊したのは必然であった。

 

ドイツの加害と被害の歴史認識

 
 さて、あまり知られていないことだが、体制崩壊が起こったとたん、いち早く市民に救いの手を差し伸べたのがドイツの市民団体であった。西側諸国の市民団体もそれに続いたのであるが、それ以来二〇年を経た現在も、たゆまなく救援を続けているのがドイツ、イタリア、そして日本の旧枢軸国の市民団体なのである。

ミンスク北方の新しい村にドイツ人若者も駆けつけ一家総出で農家を建設
 これは決して偶然ではないだろう。特にドイツの多岐にわたる援助では、汚染地域の村を丸ごと移住させるプロジェクトも実現している。ある移住村では、援助で調達された資材で村民が一家総出で自らこれまで六〇戸ほどの家屋を建設し、夏休みにはドイツの若者たちも手伝いに出かけて歴史も学ぶ。しかもそこにはドイツ製風力発電が二基あり、驚くべきことには有り余る電力を売却するためにドイツ方式の余剰電力買い取り制度も導入され、新しい村は大きな収益を上げているという。

ベラルーシ初めての風力発電二基
 「独裁で悪名高いベラルーシ政府がこの制度を認可したのには驚いた」と、この「脱チェルノブイリの故郷」プロジェクト代表のルードヴィッヒ・ビュルグマン医師から聴いた。膨大な資金はどうしたのかと問うと、「多くのNGOが協力して寄付を集めた。なにしろドイツ軍が取り返しのつかない最も甚大な被害を与えておきながら、何の賠償も得ていない市民への献金だからよく集まった」と答える表情は嬉しそうだ。この答えに戦後世代のドイツ市民の行動の動機である歴史認識が顕著に現れている。

  「なぜドイツは脱原発を決定できたのか」とは、フクシマ以降に、日本ではメディアでもしばしば問われる。「ドイツはチェルノブイリで汚染被害を体験したからだ」というのがよくある答えだ。確かに、特に南ドイツは、現在の栃木あたりの関東北部ほど汚染され、いまだにキノコやイノシシの汚染度は高い。だが、これは表面的な見方だ。根本にあるのは先の大戦での「加害と被害の歴史認識」である。

 

 二度と戦争はごめんだ

 
 ドイツ語で Nie wieder Krieg, Nie wieder Auschwitz(二度と戦争はごめんだ、二度とアウシュビッツはごめんだ)という、よく繰り返される拒否のスローガンがある。これは先の侵略戦争とホロコーストでの加害体験からくるものだと一義的には解釈できる。しかし、よく観察するとこの「戦争拒否」には被害体験もあることがわかる。

  一九八六年に小田実らと始めた「日独平和フォーラム」による訪問がきっかけで、わたしは当時そこで警察力に守られて建設が強行されていたバイエルン州ヴァッカースドルフ核燃料再処理施設建設に反対する市民運動の仲間たちを何度も訪ねることになった。当時の同州首相シュトラウスは、日本の中曽根康弘と並ぶ「日独の核の男爵」と呼ばれた人物で、アデナウワー政権の国防大臣であった一九五七年には、西ドイツ国防軍の核武装を提案している。

 初めて訪ねたころは、チェルノブイリの事故により高揚した反対運動で、施設の建設現場を巡る攻防戦はデモ隊と警察の双方に死者もでる激しいものになっていた。それを支える現地の草の根の市民たちとずいぶん親しくなり、家族付き合いまでになると、年寄りたちが語る家族史を聴く機会が多くなり、彼らの運動参加への動機が「二度と故郷を失いたくない」ことであることを知った。
 ドイツは敗戦で国土の四分の一にあたる東プロイセンやシュレジア地方の領土を喪失しており、そこから一二〇〇万ものドイツ人が追放されている。これは敗戦後の人口の二〇パーセントにのぼる。これらの人々と彼らの子弟が、全国の反原発運動の積極的な担い手には多いことがわかってきた。

 よく知られているように、日本とは逆に、戦後ドイツでは戦争加害は公にも多く語られ、被害については公然と語ることは政策的にも避けられてきたし、現在でもそうである。語ればたちまち被害諸国の神経を逆なでするからだ。とはいえ市民の意識から故郷喪失の痛みが失われることはありえない。
 原子力施設建設は彼らの、この歴史体験の痛みに触れ、「二度と故郷喪失はごめんだ」と立ち上がらせたのである。これがドイツ市民が脱原発を実現した陰の大きな力である。そしてそれはまた、チェルノブイリで故郷を喪失したベラルーシの人々への同情ともなり、積極的な援助活動への力ともなっている。フクシマでもこの力が発揮され、メルケル首相をして彼女の原発稼働延長策を放棄させたのである。
  
 彼女の見事な君子豹変ぶりについて、先の六月末に「市民と科学者の内部被曝研究会」を始めとする日本の市民諸団体に招待された高木仁三郎の友人で、ドイツ放射線防護協会代表の→セバスチアン・プルーグバイルは次のように述べている。
脱原発決断を発表するメルケル首相2011年3月14日撮影梶村
 「私は確信しているのですが、首相にとって決定的であったのは福島の大惨事が技術的な問題だったのではなく、福島の事故のニュースがチェルノブイリ事故後の恐怖の記憶をドイツ人に呼び起こすことに、彼女が気付いたことです。この恐怖の記憶の波と、皆さん日本の人々への同情の思いの波があまりにも大きく、直ちに明確な行動を起こさなければ、次の選挙で負けてしまうかもしれないとの懸念を、正当にも首相はいだいたのです。そこで彼女は行動を起こしたのです。政治権力上の計算でしたが、彼女自身はその決定がエネルギー政策上正しいのかどうかについて、内心ではほとんど確信していなかったのです」
 彼のこの言葉は、同じ東独出身で同じ物理学者であるメルケル首相への皮肉を込めた強烈で鋭い批判である。このようにドイツ市民が脱原発を実現したのは、市民の戦争での加害認識が、被害認識に裏打ちされ、それがもたらす「犠牲者を哀悼する能力」が、チェルノブイリとフクシマで発揮されたからであるといえる。

 「二度と敗戦はごめんだ」のフランス

 ところが、ライン河の対岸の原子力大国フランスでは事情がまるで反対である。高木仁三郎の盟友で彼と一緒に「もうひとつのノーベル賞」を受賞したフランスのマイケル・シュナイダーの言葉を挙げよう。同国が核大国となった根拠を問うわたしに、第二次世界大戦後の国是とも言える歴史認識について「それは二度と敗戦はごめんだ」であるとし、「宿敵ドイツ軍による占領とヴッシー傀儡政府の屈辱体験は二度と許せない。ドゴールは伝統的な大国意識をあおって核武装をし、ついには原発大国となった」という。ここには戦争の加害認識は皆無で、ただ被害認識だけが伝統的大国主義の復活の保障としての核技術を促したのである。
 日本よりはるかに原子力経済に依存するフランスが、そこから脱出するのは容易ではない。市民も多数が「フランスの技術は最高だ」といまだに大国意識を発揮して原発神話を信じている。ドイツ人が心配するのは、「フクシマの次はフランスのどこかではないか」ということだ。このように同じ「二度とごめんだ」という戦争体験が、隣国の独仏では原子力政策で対極の結果を生んでいる。戦争で惨敗し大国意識を失ったドイツと、惨勝して傷ついた大国意識を回復しようとしたフランスとの核政策での落差は巨大だ。

「過ちを繰り返す」加害認識なき日本

夜のヒロシマ平和公園の追悼の辞 撮影梶村
 では、ヒロシマ・ナガサキの犠牲者に「安らかに眠って下さい過ちは繰り返しませぬから」と毎年誓っている日本はどうなのか。なぜフクシマで過ちを繰り返し、ヒバクシャへの誓いを裏切ってしまったのであろうか。なぜ核兵器廃絶を訴える被爆者団体や核戦争防止医師の会が、脱原発運動の先頭に立てないのであろうか。
 それは、東アジアの戦後史では、「唯一の被爆国」であるとの被害認識に依存することで、ドイツ同様に本来はあるべき戦争犯罪の加害認識を社会全般から抑圧することが日本には許されてきたからである。侵略者日本の戦後歴史認識は、皮肉なことに被爆体験によってまずはあるべき加害認識の裏打ちを失ったいびつなものになっている。不幸にもそこでは自他の犠牲者を哀悼する力が極めて脆弱だ。そしてこの弱さが、原発事故の被害を社会の「想定外」としたのである。
 早くからこの加害の裏打ちを欠いた日本の歴史認識を指摘した小田実が健在ならば、彼はいまごろはフクシマの被害者のための新しい村の建設に奔走しているに違いないとわたしは確信している。
(文中敬称略)(かじむら・たいちろう/在ベルリンジャーナリスト)
『市民の意見』NO.133号 2012-8-1掲載

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 寄稿は以上のとおりですが、現在日本で始まっている市民の自立した運動の日本における最初のものは、小田実氏らが60年代に始めたべ平連の活動であることはよく知られています。
とはいえ、現在高揚している金曜デモなどに参加している若者の皆さんには、それがどのようなものであったかは実はあまり知られていないのではないかと思います。半世紀も以前のことですからそれも当然です。

そこで、 小田実氏がどのような人物であったかをデジタル世代のみなさんに簡単に紹介します。
まず、この短い動画
-->「血肉の思想といは歩いて考えるがいいをご覧ください。
こちらです。 まさに今、脱原発を求めて日本の若者たちがこぞって始めていることがこれではないのでしょうか。

そして、 今から45年前、岡本太郎氏の「殺すな」の揮毫とともに「ベトナムでの殺戮をやめよ!」と主張した意見広告をワシントンポスト紙に寄せた、単純明快であるからこそ普遍的なスローガンは、小田実氏が生涯をかけて訴え続けた「棄民と難死の思想」のシンボルとして、現在の反原発行動の中でも→新たなデザインのバッジとシールとなって生き続けています。
新デザイン「市民の意見30の会」


ワシントンポスト意見広告



 以上ご参考まで。
なを、梶村の小田実氏の想い出は、→『季刊中帰連』誌で、「世界のチング小田実」と題して2007年から08年にかけて3回に分けての連載があります。

また、この稿で触れた「ドイツはなぜ脱原発ができたのか」との問いに関する、ひとつの回答として、TBSの金平茂紀記者が今年の2月にみどりの党の共同党首のひとり、→クラウディア・ロート氏にインタビューしたものが書き下ろされています。ロートさんはそこで、歴史認識については触れてはいませんが、彼女の言葉はドイツ社会の雰囲気を生き生きと表現しているので参考になります。合わせてお読み下さい。

彼女の口から歴史認識について聞き出すためには、例えば「フランスとドイツの原発政策の差がでている歴史的社会的理由は何か」といった質問が必要なのです。
このインタヴューにも触れている金平記者による報道特集→ メルケル首相脱原発裏側は幅広い視点からまとめられており、その後もよく観られているようです。
この取材風景については→こちらもご覧ください。

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7月30日、小田実氏の命日に追加です。

本日の東京新聞の一面トップはもちろん昨日の国会大包囲の記事ですが、その左に大きな以下のような小田氏についての坂本良江さんのお話しが掲載されています。

ベルリンに掲載紙のオリジナルが着きましたので、写真を差し替えます
東京新聞2012年7月30日1面

2 件のコメント:

  1. 短い動画 →「血肉の思想というのは歩いて考えるのがいい」は、正確にリンクされていません。
    再掲を御願い致します。

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    1. KAHNさま、

      ご指摘に感謝します。修正しました。
      「こちらです」をクリックして下さい。動画が見れます。

      お礼と修正のお知らせまで

      梶村

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