2015年8月18日火曜日

307:「安倍落第談話」を日本の教室でのテキストクリティックの教材として提案します。歴史認識での孤立を克服するために。

 8月14日に出された戦後70年の安倍談話に対する明日うらしまの見方は、出された直後に→前306回で赤字で書いたとおりです。
 その後の世界中の反応をみると、そこで予測したとおり、合格点を付けたのはアメリカ政府とオーストラリア政府などほんのわずかで、この国々のメディアはもちろん、中国、韓国はもちろん、その他の大半のアジア諸国、ヨローッパ諸国のメディアでは立派な落第点が付けられています。
一々例を挙げませんが、諸国の主要メディアでは「歴史を他人ごとのように自分の言葉で語っていない」、「アジアの被害者の心には届かない」「多言を要して謝罪をしたくないのが本音」、さらに「天皇の方が深く反省している」といった見方が大多数です。

 落第点をつけた報道の一例として、前回ベルリンの「慰安婦」連帯デモの取材に現れ紹介しましたヨーロッパでは知識人に大きな影響力を持つ独仏共同公共テレビのArte・アルテのニュースでは「安倍首相は歴史修正主義者の集まりである日本会議の一員である」と、ついに背後関係まで報道しました。
その報道に日本語字幕が付けられていますのでご覧ください。
ドイツARTE70年談話
安倍首相は歴史修正主義的グループである日本会議メンバーだからだ

 
  
 この例が示しているように、合格点をつける論評は「安保法制が合憲である」との日本の憲法学者の意見を見つけるほど難しいのが実情です。ついに、この談話は安倍政権は日本の歴史修正主義者の集まりであるという見方をしっかりと国際世論で定着させることになっています。

 にもかかわらず、14、15日の共同通信の世論調査では「談話を評価するが44%、評価しないが37%」との結果となり、内閣支持率も上昇しています。すなわち日本の世論は、ここでも世界世論と逆行する傾向を示しています。すなわち安倍談話を多数が支持する日本は歴史認識でさらに孤立を深めていることになります。

 なぜこのようなことになるのでしょうか?
ひとつの直接の原因は、日本の大半のメディアが談話には「侵略と反省という言葉が入った」とこぞって必要以上に大きく取り上げたことにあるでしょう。だから「良かった」と思う日本人が多くても不思議ではありません。
 
 ところが、そんなことは世界世論では、常識以前のことなのです。世界の主要メディアは「これらの談話の言葉が、一体どのような文脈で述べられているのか?」と厳しく読み込んでいるのです。そこから批判が生まれるのです。すなわち、ここでは日本のメディアはテキストクリティックの能力で落第なのです。ここに歴史認識での日本の世界からの孤立の大きな原因があると言えるでしょう。

 そこで、わたしは2010年に東京のある大学でカントの定言命法に関するドイツ語文献翻訳の実験的な演習を行い、優秀な大学院生たちをうんと苦しめたことがありますが、安倍談話を読んでその時のことをふと思い出しました。 「これは初歩テキストクリティクの格好の教材となる」と気付きました。

 理由は簡単です。例えばわたしが、どこかの高校か大学の教師であり、生徒、ないしは学生諸君に、「君たちが日本の首相であれば、戦後70周年の首相談話をどう書くか」との課題を、夏休みの宿題の課題としたとします。もし今回の安倍談話がその回答として出されたら、たちまち落第点を付けます。単位ゼロの評価です。

 そこで日本の大学、ないしは高校の先生方に提案します。夏休み明けの秋からの教材として教室で使われることを勧めます。幸い公式の英文もありますので、うってつけです。

*首相官邸ホームページより日本語原文と英文

→内閣総理大臣談話       →Satement by Prime MInister Shinzo Abe

 さらに今回、談話と比較されている8月15日の全国戦没者追悼式での平成天皇のお言葉も比較テキストとして教材になります。

*宮内庁ホームページより日本語と英文

→天皇陛下のお言葉 

Address by His Majesty the Emperor on the Occasion of the Memorial Ceremony for the War Dead (August 15, 2015)


これらをそれぞれの、広い範囲での人文系の授業で教材として使うことができるでしょう。これだけは、文部省も使うなとはいえないことは間違いありませんよ。

 例えば歴史の授業では、談話冒頭の「植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。」という記述の初歩的な間違いはどこにあるか?(東南アジアの諸国の歴史から300年ほどズレている。ポルトガルがマラッカ王国を占領したのは16世紀初めで、日本の直ぐ南の現フイリッピンをスペインが掌中にしたのは16世紀半ば。要するに安倍内閣の恐るべき無知はこの程度。これが閣議決定された総理大臣談話であることは、一体どういうことなのか)といったクリティックから始められますし、語学の授業では日本文と英文の主語の違いはどこにあるか? このあたりから始められます。

 このような教育は、ドイツではギムナジウム(中高等学校)では通常の教授法です。批判力を身につけることが目的とされているからです。ここからメディアの批判能力も培われて来るのです。
 日本では管理教育で批判能力を身につけることのできていない世代がメディアでも多くなって来ています。今回の安倍談話を巡って日本メディアは生命線である批判能力の弱体化が露になっています。このままでは、歴史認識での孤立化はますます進むだけです。この危機を長期的に克服するためには、長期的には教室から始めなければならないと思います。

 以上日本の教員のみなさま、あるいは高校生、大学生諸君に勧めます。

(18日追加)昨日これを書いた頃の朝日新聞電子版に、外務省が安倍談話の出された直前14日にホームページから安倍談話と整合性のない村山談話や小泉談話を→こっそり削除したとの記事があります。 姑息きわまりない隠蔽体質が出ていますね。この分では教室で安倍談話が負の教材として使われるようになると、官邸の頁から安倍談話も削除されてしまうかもしれません。早く保存してください。
この記事から一部を引用させていただきます:

 
削除されたのは「歴史問題Q&A」というページ。2005年8月、戦後60年の取り組み
の一環で掲載した。先の大戦に対する「歴史認識」のほか、「慰安婦問題」「南京大虐殺」
「極東国際軍事裁判(東京裁判)」など8項目について、政府の見解や対応を説明している。

 先の大戦の歴史認識については「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア
諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「痛切なる反省と心からのおわびの気持
ちを常に心に刻み」などと記述。1995年の村山談話や05年の小泉談話を踏襲する内容
で、両談話を参考資料にも掲げていた。

 また「南京大虐殺」については「日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略
奪行為等があったことは否定できない」などと説明していた。

ドイツでこんなことが起これば、メディアから担当官は厳しく理由を追及されることは間違いありません。歴史隠蔽体質が外務省にも沁み込んでいる実例でしょう。

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ついでに我田引水となりますが、『世界』の最新号に戦後70周年特集があり、わたしも「負の歴史に終止符が打たれることはない」と題して、ドイツの戦後70周年について寄稿しています。こちらの→目次にあります。ご参考まで。

ドイツ・負の歴史に終止符が打たれることはない

──見過ごされて来た旧ソ連の被害者に向き合う市民たち──

梶村太一郎



 「親衛隊とドイツ軍によるレニングラードの包囲と市民の餓死、意図された570万人のソ連兵捕虜の半数の死、ワルシャ ワのユダヤ人ゲットーの殲滅、そして1944年のポーランドの首都の計画的破壊などを生き生きと記憶せず、そこから生じる道徳義務を忘れたりすることへの 正当性などはあり得ない」(5月8日、ドイツ国会における記念式典での歴史家H. A. ヴィンクラーの言葉)。
 ユダヤ人600万人に次ぐ330万人もの犠牲者をだしたソ連兵の捕虜など、旧ソ連の「忘れられた犠牲者」の存在をドイツの市民と国家はどう認知し、謝 罪・補償をしようとしているのか。「忘れられたナチスの犠牲者のための市民参加・コンタクテ」などの市民団体の活動と、それに呼応した国家の対策を紹介し つつ、戦後70年のドイツの新しい動きをルポする。


(8月20日追記:訂正)
やっと昨日、手元に着いた『世界』の上記の寄稿を読み返してみると一カ所校正の見落としがありましたのでこの場で訂正します。
192ページ上段3行目に:
一九四年六月に始められたバルバロッサ作戦では、・・・
とありますが、正しくは一九四年です。

この最新号には力のこもった寄稿が多く見られます。是非お読み下さい。

わたしが特に注目したのは、「慰安婦」問題と平和論に関する以下の寄稿ふたつです:

破綻した「日本軍無実論」

永井 和


 「慰安婦」制度に対する日本軍の責任を否定する主張を展開し、元「慰安婦」の主張や支援団体の主張、さらにまた日本政 府のとった措置を非難するとともに、「軍の関与の有無」から「強制連行の有無」へと論点をシフトさせようとする──この「日本軍無実論」は、いつ、どのよ うに登場したのか。
 慰安所は戦地に展開した公娼施設であり、合法的な存在であるから軍の責任は問えないとする見解を中心に、社会に深く根を下ろしつつある「日本軍無実論」を整理して論じながら、「慰安所=軍の後方施設論」を軍や警察の資料をもとに実証する。


反復強迫としての平和

柄谷行人


 憲法9条を守ってきたのは誰なのだろうか、なぜ平和憲法は70年もの間、変えられることなく今に至っているのだろう か。護憲派のキャンペーンのためか、それとも、進歩派知識人の啓蒙活動によるものか──。そのどちらも正しくはないのではないか、そう著者は考える。なぜ なら、憲法9条は「意識的な」反省や活動によって維持されてきたのではなく、日本人に「無意識的に」定着したものだからだというのである。ではなぜ、そう なのか。著者はカントとフロイトの2人に着目し、その平和論がどのような時代と社会の文脈から表れてきたのかを辿っていく。そして今後も、日本人と憲法9 条が離れることはないと喝破するのである。
 憲法違反の安全保障法案が国会で議論され、戦後日本の平和と民主主義が最大の岐路にあるいま、世界史的な視野からの憲法9条の平和論を熟読玩味したい。







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