2014年1月3日金曜日

220:日本の政治家の「靖国引きこもり症」。安倍首相とガウク大統領の言動の落差(その3)

 さて、読者のみなさま、日本で蔓延する「靖国引きこもり症」に関する連載のその3です。

 中国の新華社通信は、元旦の論評でついに靖国参拝をする安倍晋三首相を→「東方ナチスを拝むもの」とのタイトルで怒りを表現しています。
「東方ナチス」との表現はこれまでにない次元のものです。中国政府がここまで決定的に批判すれば、中国市民も政府を信頼して注視しているのではないかと推定できます。
 その出だしにはこうあります:

 新しい一年を迎えるにあたり、日本の安倍晋三首相は1226日に靖国神社を参拝し、「東方ナチス」をひれ伏して拝み、歴史の歯車を逆転させることを加速していた。
 ファシストが侵略戦争を起こしたことは、人類にとって暗黒の過去だと言わなければならない。この暗黒と醜悪にいかに立ち向かうか、明らかに異なる2つのやり方がある。  
 
 そのうえで、韓国もすでに長年主張している、1970年の当時のブラント西ドイツ首相のワルシャワゲットーの記念碑の前での跪きの写真を挙げています。
この44年前の、いわゆる彼の「東方外交」 での行為が、欧州の冷戦終結に及ぼした影響が画期的なものであったことは歴史が証明しているところです。加害国の一国の首相が、被害国の犠牲者に文字どおり跪いたからです。この瞬間から東西冷戦の凍結した鉄のカーテンは融け始めたのです。

 この新華社の主張も、なぜ日本は同様な姿勢がとれないのかと訴え非難しているものです。 ここで「東方ナチス」との表現が出たために、これに対しておそらく繰り返されるのは以下のような反論でしょう。

 20年前から歴史修正主義者の西尾幹二氏などが唱えている主張です。すなわち「ナチドイツはユダヤ人殲滅という民族虐殺を行ったもので、日本の戦争犯罪とは全く別の質のものだ。日本は民族虐殺などはしようとしなかった。だからドイツ人のように謝罪する必要はない」というものです。これは戦争の被害者をユダヤ人だけに矮小化するデマゴギーの論です。
 たしかにナチスは、ヨーロッパに伝統的にある反ユダヤ主義の伝統を収斂させてヨーロッパのユダヤ民族の半数ともいわれている600万人を自己目的として虐殺しました。
これは、人類史上かつてない質の人道犯罪であったため、ニュールンベルク裁判で「人道に対する罪」というあらたな罪状で裁かれました。そして東京裁判ではこの罪状は適応されず、日本人のA級戦犯も主として「平和に対する罪」で裁かれたのは事実です。
 
 しかし、日本の侵略戦争での犠牲者は2000万といわれており、その内最大の被害者は15年もの侵略にさらされた中国であったことは確かで、間違いなくユダヤ人以上の犠牲を払っているでしょう。こんなことが可能であったのも、そこにはナチスのゲルマン民族選民思想と反ユダヤ主義と対をなす、日本で周辺諸国を蔑視する日本民族選民思想があったからです。いわゆる「皇国思想」です。スローガンとしては「八紘一宇」でした。
 これもナチスドイツに匹敵するファシズムでした。ファシズムには選民思想に基づく人種主義が共通項としてあります。それがファシズムの暴力の源なのです。

 したがって、安倍晋三首相の靖国参拝で、中国がついに「東方のナチス」との表現をすることは、学問的には異論があるにしても、本質的には間違いではありません。

 さて、「ドイツはユダヤ人に対して取り返しのつかない罪業を犯したのだから日本と別だ」「ブラントが跪いたのもユダヤ人ゲットーである」との西尾幹二氏式の言説が、全くのデマゴギーであることを、わたしは昨年秋に執筆していますので紹介致します。

 ブラント首相以降も、ドイツの歴代首脳はユダヤ人だけでなく、先の大戦でのナチスの人種主義暴力支配の他国の犠牲者に和解を求めて謝罪を絶えることなく続けているのです。
 以下の報告の後半に見られる、現ドイツ大統領のここではフランス人犠牲者への謝罪の足取りのその重さがいくらかでも読者に伝わればと願います。

これは、昨年の夏の日独の政治主導者の言動の落差を比較したものです。

以下、文章は掲載分と全く同じですが、写真をひとつ加えて、ひとつは鮮明なものに差し替えてあります。

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ベルリン歳時記37 『季刊中帰連』2013年10月53号
                               梶村太一郎
    ふたりの性奴隷とふたりの政治家

ブランデンブルク門での「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」写真:梶村

 第二次安倍内閣の成立によって、世界に広がっているのは日本に対する深い失望感である。フクシマの原発事故を処理する能力のない日本社会、かつての戦争犯罪の責任を否定する言動が容認される社会、これらによって日本に対する不信感が広がりつつある。そして、それを自覚しない日本社会。これは恐ろしい事実である。戦争犯罪に対する無自覚が、どのような日本像となるか、以下その例として「慰安婦問題」と日独の政治家の行動を挙げよう。

金学順さんと万愛花さん
 無名のたった一人の勇気ある発言が巨体な歴史を大きく動かすことがある。一九九一年八月一四日、韓国で金学順(キム・ハクスン)さんが「慰安婦」として名乗り出たことがその一例だ。それからちょうど二二年後のこの日、「日本軍『慰安婦』メモリアル・デー」とする行動が世界各地で行われた。

 ベルリンのブランデンブルク門前のパリ広場では、日韓の女性たちが中心となり、アジア諸国の犠牲者たちの写真を掲げて警告のスタンディングがあった。この行動の日独の代表者たちはこの日、日本大使館を訪れ、安倍晋三首相への「問題解決を促す公開質問状」を手渡している(本稿タイトル写真。詳しくは筆者ブログ→「明日うらしま」第117回を参照)。
 注目すべきことに、この行動を中国の文化紙である光明日報が八月一七日付けで多くの写真とともに詳しく報道した(→同第118回参照)。この事実は、韓国と比べるといわゆる「慰安婦問題」にやや消極的であった中国政府の政策に、積極的な動きがでてきたことを示している。背景には金学順さんの勇気ある行動が、二二年を経て、普遍的なジェンダーの課題として世界世論で認識されてきたことがある。すなわち「慰安婦」問題は、単なる日本軍の戦争犯罪問題ではなく、世界的なジェンダーと人権の現在の中心的課題となってきたことがある。これを示しているのが、二六団体もの賛同署名のある安倍総理への公開質問状の次のような冒頭の言葉だ。

 「総理もご承知の通り、本件は、この間に、アジアの存命する被害者に対する単なる補償の問題ではなくなっています。二〇年 前に被害者が名乗り出たことは、武力紛争や戦争、或は日常生活に於いて性暴力に晒されて来た、そして今も晒されている全世界の女性達への励ましとなりました。それ故、存命する被害者の権利を日本政府が認めることは、類似の犯罪を容認しないという強力なメッセージとして、女性に対する暴力を世界からなくすための一歩となるのです。このことは、ドイツ社会の示す本件への関心の高さからも、感得できます。本件に関する催しの際には、私たちはドイツ社会から常に暖かい連帯の支援を受けてきました。一体、そして何時になれば、日本が高齢の女性達の権利を認めるのかを、ドイツ社会は注視しています。
それだけに、大阪市長の橋下徹氏が、慰安所制度は当時必要だったと発言した時には、ドイツのメディアは厳しい批判を展開しました。批判は、橋下氏にのみ向けられたのではありませんでした。ドイツ語圏のメディアは、むしろ、あなたを始めとする日本の一部の政治家の言動によって橋下氏の言説が許容されていることを断罪しています。」

 
 この日の行動で掲げられた犠牲者の女性たちの写真に万愛花(ワンアイフア)さんの写真もあった。

右が亡くなった万愛花さん 写真:梶村
この方は韓国で金学順さんが名乗り出た翌年の一九九二年、東京で行われた国際公聴会で、中国人の日本軍性暴力 被害者として初めて世界に向けて被害を訴えたため、国際的にもよく知られた人物だ。昨年から体調を崩し、山西省の病院に入院されていたのだが、今年も「山西省・明らかにする会」の代表団の皆さんが、八月二六日にベルリンでの行動の写真を持ってお見舞いに訪れている。すっかり痩せて弱っておられて声も小さいながら、ベルリンでの行動を喜ばれ、「必ず結論を得てほしい。日本政府に圧力をかけて解決を要求してほしい」「頑張って(闘いを)放棄しないで」と、思いをしっかり託されたのことである。それから一週間後の九月四日に他界された。



 万さんが本年六月二〇日、病床から発した安倍首相と橋下市長に対する抗議書には次のような体験の描写がある。

 「あなたたちの日本政府が設けた「慰安婦」制度により、数十万人もの中国人女性が日本侵略者の「慰安婦」にされた。また、数え切れないほどの女性たちが、老年婦女、幼女にいたるまで、獣以下の 日本兵によって強姦、輪姦、殺害された。私の場合、あれはまだ十代の少女だった。日本兵 による掃討によって捕まった私は、日本軍が使用していた窑洞(ヤオトン)に放り込まれた。 窑洞のなかでは、白昼はひどく殴られ続け、夜になれば輪姦される。このような虐待が二一日間続いた。その後、私は逃げ出したのだが、再度連れ戻され、さらに二九日間輪姦され続けた。その後も私は逃亡したのだが、またも捕まり連れ戻される。その後も 輪姦され続ける私の状態を見て、もうダメだと判断したのか、日本兵は私を川のなかに放り投げた。 幸運にも助けが入り命は取り留めたのだが、私の身体は全身が縮み、子供を産む能力も失うほど身体的障害を負った。一生のなかで私は非常に多くの時間を病の床で過ごした。私の人生はまさに黄連(苦い薬)のようであった。泣きたくても涙も出ない。あなたたち日本兵の蛮行により、 私たち被害者は精神的、肉体的に傷つき、痛苦、恥辱を与えられた。この血の負債はだれが償うのか。」
 
 中国人民網の報道によれば、告別式は八日、山西省陽泉市盂県で行われ、養女の李拉第さんは「母の生前の最大の願いを叶えるため、私は日本政府との裁判を継続していく。日本政府からの謝罪を得るまでできる限りの努力を続け、天国の母を安心させてやりたい」と語っている。この「血の負債」を償わなければならないのは、わたしたち日本の現在の世代である。

 安倍総理とガウク大統領
 ところで、メモリアル・デーの前日の八月一三日、安倍総理大臣は地元の山口県萩市を訪れ、彼が尊敬する吉田松陰を祭る松陰神社に参拝、さらに松蔭の墓参をし、松陰を「自らの一身をなげうって国家のために尽くされた」と讃え「『間違いない正しい判断をしていきます』と誓いを新たにいたしました」と心中を記者団に語っている。

吉田松陰の墓参する安倍首相 写真:時事通信
わたしも以前、松陰神社を訪ねて考えたことを本誌で報告している(→「松下村塾と撫順の教育」ベルリン歳時記18・2005年33号)。
 
 そこでは、松蔭がアメリカへの密航に失敗し、萩の獄中で書き下ろし『幽囚録』として師の象山に送った資料を引用し、明治維新の後の日本の侵略思想の原点として紹介した。その一部を現代語訳で再録する。そこには「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満州の地を裂き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである」とある。
 一八五四年のこの主張は、天皇制軍国主義の日本は、カムチャッカを除いて、忠実にこれを実行して九〇年後に破滅したのであった。(これに対する象山の批判については前記拙稿を参照)
 この松蔭を神と崇める人物が現在の日本の首相なのである。本年四月に国会で、「侵略という定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と堂々と、時代錯誤で無知蒙昧な発言をして恥じない人物にふさわしい行動である。このような人物の率いる内閣が、国会での数を頼みに改憲を強行し、自衛隊を国軍に昇格させようとすれば、日本が完全に世界から孤立するだけでなく、敵視されることは必然だ。

 彼の言動を、もう一人の政治家のそれと比較してみよう。
 万愛花さんが亡くなった同日の午後、前日からフランスを公式訪問していたドイツのヨアヒム・ガウク大統領は、同国中西部のオラドゥールという村をドイツ大統領として初めて訪問した。東独出身でプロテスタントの牧師でもあるこの人物は、二〇一二年三月に就任して以来、積極的にかつてのドイツ軍の戦争犯罪の跡を訪問し、犠牲者とその遺族たちに償いを請うている。イタリアのトスカナ地方のスタツェマ村、チェコのリディツェ村など、いずれもドイツ軍によって、パルチザン攻撃の報復を名目として、住民の大量虐殺と徹底した破壊が行われ、今日に至るまで癒しがたい傷が痛み続けている地である。
 ドイツ軍による非戦闘員の虐殺行為は占領地で無数にあり、特に東部戦線では消えてしまった村落がいたるところにある。日中戦争での皇軍による三光作戦のそれと同様の戦争犯罪であった。

 一九四四年六月六日の連合軍によるノルマンディー上陸作戦が開始されて四日後の一〇日に起こったこの事件現場は、フランス解放後に訪れたドゴール将軍が、歴史を忘れないために、破壊された村をそのまま永久保存し、近くに新しい村を建設する決断をした。そのためフランスではドイツ軍の犯罪の象徴の地名となっている。(Oradour-sur-Glane, France で→画像を検索すれば写真をみることができる)
 
 連合軍の上陸でヒトラーは南仏のドイツ軍機甲部隊に援助に向かうよう命令し、それを阻止しようとするレジスタンスの活動も活発化していた。オラドゥール村の南にある県庁所在地のチュールという街では、前日の九日に、親衛隊機甲部隊により九九人の市民が見せしめとして絞死刑にされている。その一中隊の一二〇名が翌日の午後二時にこの村に現れたのである。村にはパルチザンに参加する者もおらず平和な農村であったため、村民は若者が強制労働に徴用されることを恐れていただけだとの証言がある。

 ドイツ兵はこの時点で村内にいた、男性一八一名を六ヶ所の干し草貯蔵小屋に分けて押し込め、一斉に機関銃で銃殺し、死体に干し草をかぶせて放火した。別に、女性二五四名、子どもと赤ん坊二〇七名をまとめて教会堂に閉じ込め、窓から機関銃と手投げ弾で虐殺したうえで放火している。その上で村全ての家屋を焼き払ったうえで引き揚げている。
 燃える干し草小屋のひとつから、かろうじて逃亡した男性五名が生き残り、教会堂からは祭壇の窓から銃創を負った女性一人が逃亡できただけであった。生後一週間の赤ん坊を含め、六四二名が犠牲になっている。火災のため、後に身元が確認できたのは、わずかに五三体であったという。
  生存者六名のなかで、六九年後の現在、お元気なのはふたりの男性だけである。現在も唯一の語り部としてお元気な、当時一五歳のロベー・エブラさんは、前に立っていた友人の身体が盾になったおかげで銃弾を免れたという。平頂山の幸存者と全く同じである。
 
 ドイツ政府の高官が、なぜ七〇年も同地を訪問ができなかったについては、この事件特有の複雑な背景がある。戦後、ドイツ兵がフランスで戦犯として裁かれたのであるが、その中にアルザス出身のドイツ系フランス人が含まれていた。ライン川左岸のこの地方は歴史的に独仏両国が戦争で奪い合った地域であり、ドイツ系住民が今でも多い。このドイツ系兵士たちには有罪判決が下されたものの、「ドイツ系住民はドイツ軍に強制的に徴兵された」と主張するアルザス地方の強い意見をくんで、フランス政府の政治判断で早期に恩赦されてしまった。これがこの村の住民の強い怒りを呼び、この村は長くパリの中央政府と「断交」状態が続き、フランスの過去を巡る国内問題となっていたのである。かつて皇軍に徴用され、戦後戦犯として連合軍軍事法廷で裁かれた朝鮮人日本軍兵士とよく似た複雑な事情がそこにある。日独の侵略戦争が隣国に残した、いまだに癒されない傷である。

 フランスのフランソワ・オランデ大統領はこのことをとりわけ実感している政治家である。彼には、上記のチュール市長を長年努めていた経歴があるからだ。彼はこの日、ガウク大統領に同行した。
 このような背景のある村のドイツの大統領の謝罪訪問は、したがってフランスでは大きな出来事であり、ドイツでも主要紙が数日前から詳しく歴史を報道している。当日は、独仏の公共テレビが二時間に渡る訪問の全てを実況放送し、わたしもベルリンからそれを追ったのである。

 この日は雲ひとつない日差しの強い快晴。現地でふたりの大統領は村長と八四歳のエブラさんに出迎えられ、ゆっくりとふたりの説明を聴きながら廃墟の村を案内され、少し高台にある教会堂の廃墟に至った。
 ふたりの大統領は、エブラさんを中に手をつないで廃墟の祭壇に向かい、そこで三人は無言でしばらく祈りを捧げた。

廃墟の教会で祈りを捧げて。右がガウク大統領 写真:南ドイツ新聞電子版
ここはエブラさんの母親と妹が殺された場所である。祭壇前には錆びた乳母車の残骸がそのまま残っている。エブラさんの肩を抱きながら、祈りをささげたガウク大統領は、乳母車に衝撃を受けたことを後日述べている。出口の陰で涙をふるうガウク氏を映像がとらえている。

 それから記念資料館を訪れた後両大統領は、村はずれの墓地にある犠牲者の追悼記念塔の前で、住民を前に犠牲者への献花と追悼演説と記帳をおこなった。
 ガウク大統領は「今日、初めて自らの目で、ここを破壊した野蛮な滔天(とうてん)の罪行を見ることができました。これを行ったドイツ人として恥ずかしく思い、このことがフランス国民と生存者にとって何を意味するかを痛切に感じます。ドイツ人大統領として、皆さんが和解への意思をもって受け入れてくださったことに深く感謝します。わたしたちドイツ人はオラドゥールと、他の多くの蛮行の地名を決して忘れることはありません」と述べた。
 これに対して、オランデ大統領は「あなたがここを訪問したことは、かつてのドイツの残虐行為を直視する現在のドイツの尊厳の証である」と応えている。

追悼記念碑の前で抱き合う3氏 写真:DPA
記帳を終えたふたりの大統領は、改めてエブラさんを中に、手を取り合って無言で抱き合った。六九年を経ての三者の和解の姿である。

 わたしは、ガウク大統領の演説を聴きながら「zum Himmel schreienden Verbrechen/天にまで叫びがとどく犯罪」とは、撫順の管理所で戦犯たちが供述書にしばしば記した「滔天の罪行」と同じ言葉であることに気づかされたのであった。



 この夏の終わりに、このように世界はガウク大統領の歴史的な虐殺の村訪問と、松蔭の墓参をする安倍首相の姿を記憶にとどめた。ふたりの政治家の言動の落差は埋めがたく深いのである。

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以上引用終わり。

ここに書いた「滔天の罪行」との表現が、中国政府の安倍靖国参拝への批判声明にも見られます。

1月4日。追加です:
 この日の独仏両大統領の演説が見られます。→ドイツのテレビ
この訪問の実況放送の全部の記録は→フランスのテレビで。

 ガウク氏は牧師ですから素晴らしいドイツ語を話します。 内容もすぐれたものです。
 ここで、また演説を聞き直してみると、オランデ大統領がそこで引用したこの犯罪に寄せたあるフランスの詩人の詩にある「オラドゥールには何一つも残らなかった・・・・叫びだけが残った」との一節に、ガウク大統領の「天にまで叫びがとどく犯罪」が見事に対応していることに気づきました。
 被害者の叫び声を、加害者が聴こうとするまで和解は不可能なのです。

1月5日。再追加です:

ある読者からの指摘で、このガウク大統領の訪問を元NHKヨーロッパ総局長の大貫康雄氏(現自由報道協会代表理事)がブログで報告されていることを知りました。
この事件の処理を巡るフランス内での困難な背景にも触れられている優れたものですので、是非併せて読んでください:
  →ナチスに消滅させられた村を訪れた独大統領。その胸の内は・・・

 ただ、ここで ドイツでは2010ナチス戦争犯罪に時効をなくし」 との記述がありますが、ドイツでナチスの犯罪を巡る長い論争の末、ついに刑法の謀殺罪(Mord)の時効を廃止したのは1979年のことです。
おそらくこれに続く氏の記述:「 歴史家が新たに発掘した資料に基づきオラドゥール村虐殺事件被告が新たに特定され裁判が始まっている」のが2011年であることと、混同されてのことと思いますので、指摘しておきます。

論議の経過については→こちら「時効論争」を参考にしてください。現在の→殺人罪公訴時効に関するの刑法条項はこちら

日本語でこの問題に関して手際よく解説してあるのは、ここの→「ナチス犯罪の公訴時効の項」を参考にしてください。

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