昨日わたしが得た情報が、残念ながら事実であったと、今朝NHKが伝えました。
→オバマ大統領広島訪問 元米兵の同行は見送り
そこにはトンプソン会長の言葉として「この結果に失望している。元アメリカ兵の派遣は和解などの力強いシンボルになると思っていたので、アメリカにとっても日本との同盟関係にとっても損失だ」と批判の言葉があります。
これで、明日の広島訪問はオバマが献花の後でヒバクシャ代表と少し言葉を交わすだけの内実の薄いものとして終わるでしょう。非常に残念です。(以上青字は追加です)
本日25日、G7のため日本入りしたオバマ大統領に元米軍の日本軍捕虜団体の代表が広島訪問に同行し、被爆者との面会もあるのではないかとの報道が多くありました。わたしのところには、はたしてそれが実現するかどうかは危ういとの情報も現時点では届いています。
もし実現できなければ大変残念なことです。アメリカ大統領の初の広島訪問という、歴史的な機会に、「原爆投下で命が救われた」という奴隷動労を強いられた元捕虜と、最悪の人道犯罪の犠牲者であるヒバクシャが出会うことは非常に貴重な出来事であるからです。実現すれば,大統領訪問に日米の被害者が共に内実を付け加える真に歴史的な出来事となるであろうからです。またそれは、両者の年齢からしておそらく最後の機会になるかもしれないからです。
実現するか否かはさておき、同行することになっているダニエル・クローリー氏(1922年5月生まれ、現94歳)との二年前のインタヴューがありますので、それを以下紹介します。
これは、日本軍による連合軍戦争捕虜の実態を調査する→POW研究会という日本の市民団体の一員である ジャーナリストの 西里扶甬子(にしざとふきゆこ)氏が2014年の5月に当時92歳のクローリー氏にカルフォルニアで行ったインタヴューのご自身による翻訳の全文です。
なぜアメリカでは「原爆投下が多くの人命を救った」という世論が強いのかを知る上でも、日本ではほぼ無視され続けている、いまだに悪夢にうなされるクローリー氏の体験証言は日本の歴史としても重要です。史実を知り解釈をする上での資料として貴重であると考え、読者のみなさまにお伝えします。
原文はPOW研究会では資料として知られていますが、一般公開はこれまでなされていないとのことですので、西里氏の了承を得て以下紹介させていただきます。したがって、このインタヴュー報告の全文の許可のない転送はしないで下さい。一部を引用しての紹介は歓迎しますが、必ず引用元を明記してください。
以下インタヴュー翻訳全文:
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Interview
Daniel Crowley(ダニエル・クローリー) 92歳
ADBC(American Defenders of
Bataan & Corregidor=米軍バターン・コレギドール防衛隊戦友会)メンバー
Dan&Kelly Crowley at ADBC Annual
Convention in San Jose,
California May 2014
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米軍が日本軍に降伏
私は1942年4月9日バターン半島で日本軍に降伏したエドワード・キング将軍の指揮下にあった。私を含む数百人は降伏を拒否してコレギドール島を目指した。日本軍は降伏した米軍の対応に忙しいと分かっていたので、夜になるのを待って、死体の浮かぶ海を泳いだ。私は幸いなことに民間のライフボートの脇に隠れて泳いだ。
コレギドール島についてから、海兵隊第4連隊に加わった。私はもともと陸軍航空隊所属だったが、1941年12月のマニラ空襲の時点で、すべての航空機は日本軍の爆撃で破壊されてしまったので、歩兵に編入させられた。我々は歩兵としては全く何の訓練も受けていない、操縦士、整備士、修理工、コック、事務職などの集まりだったが、すぐに歩兵として働けるようになった。そして、1942年5月6日ジョナサン・ウェインライト将軍が再度降伏した時、それに従った。
コレギドール島からカバナツァン捕虜収容所までの「死の行進」
故にバターンデスマーチは体験しなかったが、別のデスマーチを体験する羽目になった。
それはコレギドール島から始まった。およそ1万2000人ほどが2.5エーカー(約10平方m)の農場内の土地に押し込まれた。水道は一個しかなく、食料も無かった。日中はさえぎるものなく陽にさらされ、気温はゆうに摂氏60度にも達しようかという暑さだった。
その状態が約3週間続き、地面は人間の排泄物に覆われた状態だった。
それから小さな船に載せられ、マニラまで輸送された。そこで並ばされ、日本軍の将校が剣を抜いて護衛する中、マニラ市内まで行進させられた。沿道にはフィリピンの人たちが並んで眺めていた。フィリピンにおいては、もはやアメリカ人ではなく日本人が頂点にあるのだということを誇示するための見せしめの行進だった。
弱りきった我々に水や食べ物を渡そうとしたフィリピンの人々は、残酷に殴られたり、殺されたりした。長い距離を行進させられてから、今度は貨車に押し込められた。この貨車では座ったり、横になったりするスペースはなくて、立ったままで立錐の余地もないという状態だったから、また床は人間の排泄物に覆われてしまった。
全体で何人くらいだったのか全くわからないが、酷い暑さと湿気で窒息状態だったから、かなりの人数が死んだと思う。
到着したところから、カバナツァンの捕虜収容所まで歩かされた。その後、この収容所ではおよそ3000人が死んだ。水や食料、医療の欠如の結果殺されたという表現の方があったっているだろう。その中には100人のウェストポイント陸軍士官学校の出身者が居た。一ヶ所でそれほどの人数の陸軍士官学校出の将校が死んだというのは歴史上初めてのことだった。
カバナツァンからパラワン島へ
カバナツァン・キャンプから私は数100人の仲間と共にパラワンのジャングルに飛行場をつくる仕事のために送り出された。すべては手仕事だった。木を切り倒し、根を掘り返し、珊瑚の岩を掘り返して、手押し車に載せて3~4キロ先まで運んだ。肉体労働としては想像できる範囲のもっとも過酷なものだった。
私はセメントの粉にまみれて地中にセメントを流し込む仕事を担当した。皮膚についたセメントは汗でぬれやがて固まって、体中セメントのかさぶたで覆われていた。顔は目だけが窪んでいるというような状態だった。一日の仕事を終え、船でもどると、人を刺すクラゲのいる海に入って、セメントを洗い流した。
何日間その仕事をやったのかは忘れたが、飛行場の地盤にセメントを流し込む仕事を終えると、次には滑走路の表面を舗装するセメントに水を加えて混ぜる仕事に回された。そこではセメントと砂を混ぜる割合を指示通りやらずにサボタージュを試みた。滑走路の表面はそれによって意図されたよりはずっと弱いものになったはずだ。しかし、看守兵たちは田舎の出身らしく、セメントというものを見たことがないようで、我々がやっていることには全く気づかなかった。
とうとう飛行場が完成して司令官の岸本大佐は何も気づかずに我々を「大日本帝国」に「忠実な戦士」と呼んだ。司令官機が完成したばかりの飛行場を初めて飛び立った日、その旧式の飛行機は機首が上向きになると、機尾が滑走路の表面を削る羽目になった。それでもそれが、我々のサボタージュのせいだとは気がつかなかった。米軍海兵隊がついにパラワン島に進攻した時、彼等は結局この飛行場を使用するにはスチールの板を滑走路の上に敷かねばならなかった。
日本兵に肩の骨を折られて命拾い―地獄船で日本へ
監視兵の扱いは酷いものだった。彼等は一人で10人の捕虜を担当していた。例えば私達の担当の監視兵は吸いかけの煙草の吸い口をベロベロなめて唾をつけ、我々10人が輪になっている真ん中に捨てたりして、それに10人が群がるのを見て喜んでいた。
また、どこにも逃げようのない場所だったが、ちゃんと働かないと棒で叩かれた。ある日私は余りにも酷く叩きのめされて、地面に倒れた。そこをさらに叩こうとして棒を振り上げていたが、別の監視兵が止めた。私はそこで叩き殺されていたかもしれないが、止めた監視兵は私を死体にするより、生かした方が価値があると思ったのかも知れない。
棒で酷く叩かれたことで私の肩の骨は折れてしまった。米軍の軍医が私は空港建設の労働力としてはもう使いものにならないとの診断を下した。もう一人、仲間が間違って鉄の棒を振り下ろしてしまったために腕の骨を砕かれてしまった捕虜と一緒に小さなボートで、マニラに戻された。
日本軍の軍医に診療して貰ったが、私の場合は骨折なのでなおったらまたパラワンに戻れと言われるのではないかと恐れたが、驚いたことにこの軍医はカリフォルニアの大学で医学を勉強したということで英語を話した。私は便所で転んで肩の骨を折ったといい続けていたので、頭がおかしくなったと思われていたが、この軍医は「お前は賢い」と言っただけだった。
私は一度カバナツァンに戻されそれから、マニラ港から日本行きの地獄船(Hell
Ship)に載せられて、1944年3月に日本に着いた。時期的にはアメリカ軍が日本のあらゆる船を爆撃して沈めてしまう作戦に出る寸前だったので、マニラから出たほとんど最後の船だったと思う。この地獄船の名前はと聞かれても思い出せないが、我々は「便所丸」と呼んでいた。他の地獄船(捕虜輸送船)も同じようなものだったとは思うが、私達はこの「便所丸」のデッキから3、4階下の船底に押し込まれた。立つこともできない、横になることもできない、うずくまっている他ないというような場所だった。外光はまったく入らなくて真っ暗だった。真ん中に穴があって、食料は綱で吊り下げられ、死体はそこから吊り上げられた。
パラワンの虐殺事件はこの年の12月だったから、肩の骨を折られたお陰で焼き殺されずに済んだということだ。
足尾銅山での奴隷労働
日本のどの港に着いたのかは全くわからないが、最初の日立の銅山の近くだったと思う。日立で数ヶ月働かされた後、列車に載せられて、足尾の銅山に着いた。我々は5~600人だったと思う。我々の木造の宿舎は郊外の川の傍にあった。
毎朝縦坑まで行進して、バケツ状のエレベーターで600mの地底に下りて働いた。このシャフトは岩がむき出しになった縦穴で、一度に25人が詰め込まれた。縁は腰のあたりまでしかない。このエレベーターはスチームエンジンで巻き上げ機を動かして鉄製のケーブルを操作することで上下しているのだが、このレバーを操作している運転手は、毎回地底から130mくらいのところまで急降下させると、急ブレーキをかけて我々25人が乗ってるバケツを止め、それから激しく上下に揺する遊びをしたもんだ。この銅山は始業が16世紀ということで、何もかにもみんな古い。バネもケーブルもみんな錆びているのは分かりきったことだからそのたびにハラハラするわけだ。
鉱道も元々我々と比べれば小柄な日本人用にできているから、背筋を伸ばせなくてしんどかった。経営者の古河(鉱業)は、米軍捕虜の奴隷労働者の安全などほとんど気にかけていなかったのだと思う。
私は一度、ダイナマイトの専門家と一緒に働いたことがあった。我々捕虜があけた穴に火薬をしこむと、彼が煙草で火をつける。彼は自分が合図するまで逃げなくていいと言って、煙草を落とすと一緒に鉱道の陰まで走った。数秒で爆発音が聞こえ、煙が流れてきた。
我々は日本人の監督に率いられた、朝鮮人とインドネシア人(蘭印軍捕虜)の奴隷労働者と一緒に働かされた。監督は民間人で、親切にしてくれた。時には自分の弁当を分けてくれたりした。ゆっくり休憩しろ、ただし、憲兵が見回りに来たら素早く働いているふりをするようにとも言ってくれた。
他には坑道の補強のために必要な木材を運ぶ仕事をさせられた。長い木材を背中に背負ってシャフトの壁の梯子を上って、上まで着いたところで、一人では上がりきれないので、日本人の坑夫に木材をまずあげて貰ってそれから自分が上がるということになっているのだが、彼等は時に我々をからかって、木材を動かしたりして、なかなかあげてくれない。それは真っ暗な中なのでひどく怖い。
今でも見る悪夢
パラワンでの過酷な労働と監視兵の残酷な仕打ち、そしてこの足尾銅山でのダイナマイト爆発と暗闇の中で重い材木を背中に背負ったままシャフトから上がれずに恐怖に焦る場面は悪夢によく出てくる。今でも捕虜時代の悪夢を見る。妻に聞けばよく分かるが、私は
悪夢を見ると眠ったまま、足をバタバタさせるそうだ。
食料の配給量は極めて貧弱だった。何とか命をつなぎとめる程度の量だった。大体一日700kcal程度の食料しか与えられていなかった。我々が強制された労働からして4000kcal
程度は必要だったと思う。そのような貧弱な食事を続けていると、体脂肪も筋肉も消費するだけで失われてゆく。体はどんどん縮んで行く。どうして、あのような状態で生き延びることができたのか、それは謎といってもいい。
42ヶ月の間、あのような状況で生き延びることができたのは、奇跡といってもいい。多分彼等の仕打ちに対する燃えるような憎しみ、いつか国に帰って彼等に対価を払わせてやるという決意というようなものが我々を生かしてくれたのだと思う。彼等は私が知る限りにおいて、最も残虐な人間たちだった。我々が人間ではなく、虫けらのように扱われ、命さえおろそかにされたことは、日本政府にも責任があったと思う。日本軍は兵隊を教育するとき、「中国人を人間と思うな、丸太と思って殺せ」と教えたと聞いているが、我々も全く同じように扱われた。死因としては、餓死、病死、そして生きる意志を失うことだ。
終戦と帰国
戦争が終わった日のことはよく覚えている。その日は朝から仕事にでなくてよいと言われ、昼に天皇のラジオ放送があった。我々は何を言っているのかわからなかったが、英語も日本語もできる太った中国人の料理人がいて、終戦になったことを教えてくれた。
監視兵などの正規軍はいつの間にかいなくなって、ボーイスカウトが軍服を着たような少年兵がやってきた。外に出ると、敗戦でやけになった過激な連中に危害を加えられるかもしれないと言われて外出しないようにしていた。米軍が食料をふんだんにバラシュートで投下してくれたので、食べまくった。収容所にいた少年兵たちにも分けてやった。
我々が脱出する列車が来たのが9月4日で、それまでの間に我々は食べて食べてすっかり太ってしまった。横浜で米軍の軍医に診察を受けた時には軍医も驚いていた。列車で横浜まで来る間に駅に止まるたびに、日本の子供たちにキャンディを渡してやった。
横浜では消毒のスプレーをかけられ、新しい軍服を支給されて厚木まで車で移動し、即日マニラまで飛んだ。マッカサー将軍は、我々捕虜は日本軍から酷い扱いを受けたことに
怒っていたので、何か騒動が起こることを恐れていたのだと思う。
マニラから遅い船で帰国したが、最初の年に多くの元捕虜たちが死んだ。長い間飢餓状態におかれた人間の医療という意味では、アメリカの医者たちは全く経験がなかったので、どうしていいかわからなかったのだと思う。
我々は一日50銭と書かれた軍票で支払いを受けていたが、これで買えるものなど何も無かった。終戦と共にこれは紙くずになってしまった、「便所ペーパー」の役にも立たない。あの過酷な奴隷労働の対価をいつか払って貰おうとそれだけを思いつめてこの70年を生きてきた。しかし、憎しみが私を92歳まで生かしたとは思わない。人生を楽しもうとしてきたことが良かったと思う。66年間連れ添った前妻が死ぬ前に「自分が死んだら、若くて素敵な女性を見つけて結婚しなさい」と遺言した通り、私は若く素晴らしい女性に会うことができた。生きていることを楽しんでいる。
原爆について
原爆は私の命を救っただけでなく、恐らく2000万から3000万人の日本本土の日本人の命を救ったと思う。もし戦いを続けていれば、その位の日本人が死ぬことになっていたと思う。その上恐らく200万人の英、米、豪などの連合軍国民が死なずに済んだと私は思っている。日本軍のやり方からして、日本軍は中国、朝鮮半島、東南アジア、インドネシア、フィリピンなどで無数の殺戮を続けていただろう。
日本軍は占領した各地の指令官に対して「恐怖による支配」を指令していた。「強姦」はその手段の中でも占領地の住民を震えあがらせ、屈服させる最も有効なものとみなされていた。砲弾は貴重だから使うまでのことはない。「恐怖」で征服すればよいという考えだった。捕虜の殺し方だってリストアップして、各地の収容所に送られていた。どれでも好きな方法を選べという訳だ。
原爆は非戦闘員を大量殺戮するという残酷な兵器ではあるが、とにかく戦争を早く終わらせる必要があった。日本の指導者は日本は軍事的にはすでに敗北していることを認めようとせず、戦争を長引かせていた。指導者は何とか自分達が食べる食料はあって、比較的安全な場所に身を置いて戦争を指揮できるならば、何が何でも戦争を続けようとしていた。しかし原爆によって、もう彼らの安全を確保できる場所はどこにもないということに、初めて気づかされた。だから、とりあえず、一時的に降伏して、折をみて復活するのだという考えを持った。そして、事実そういう軍国主義者たちが、今の日本を牛耳っている。我々は優秀だから再び表舞台に出現するのだという訳だ。嘆かわしいことだ。
(インタビュウ&翻訳;西里扶甬子2014年6月1日 ハイアット・プレイス・サンノゼ・ホテルにて)
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