2012年8月13日月曜日

112:ベルリンのヒロシマ忌/田邊雅章氏を迎えて平和のためのコンサート/厳しく「絆はありません」



"Konzert für den Frieden" Residenz des Botschafters von Japan,Berlin 6.August 2012,
  一週間遅れの報告となりますが、先のヒロシマ忌の8月6日、ベルリンの日本大使公邸で、ここ数年恒例となった「平和のためのコンサート」が行われました。昨年は大震災と原発事故の後であったため、日 本の援助に力を貸してくれた多勢のドイツ市民も招かれ、大変な混雑でした。
 
 4回目の今年は主にドイツ政府と政党関係者、そして在独外交官ら約百人が招かれ、→ミュンヘン・シューマン弦楽四重奏団のみなさんによる素晴らしい演奏で、ヒロ シマ・ナガサキの犠牲者を追悼し、核廃絶を願うにふさわしい、厳粛で落ち着いたコンサートとなりました(写真上)。
田邊雅章氏ベルリン日本大使館講演 6August2012
ショスタコーヴィッチの弦楽四重奏曲第8番「ファシズムと戦争の犠牲者への追悼」から始まったこのコンサートが、特別に心にしみる厳粛なものになったのは、その前にまず日本政府の非核特使として中根猛大使の招待で広島から、この日ベルリンを訪問された→田邊雅章氏の講演と記録映画の上映があったからです。

 田邊氏のお母さんと一歳の弟さんは67年前のこの日、爆心地、今の原爆ドームの東隣の生家で「5千度を超す熱線と爆風が襲いかかり」文字どおり跡形もなく亡くなっています。出勤途中に被爆したお父さんも9日後に亡くなり、おばあさんと数日前から疎開中であった8歳の田邊少年は、2日後に家族を捜すため帰り、焼け跡で3日間を過ごしたため「入市被爆者」となったのです。
この時のことを氏はこのように述べられました。

二百年以前に建てられた我が家、日本の伝統的家屋は、跡形もなくガレキの山となり、焼け跡の熱が残る地面には、産業奨励館で働いていた人々の身体の一部が散乱していました。そこで見たもの、臭ったもの、触ったものの不気味さは今でも忘れることができません。
 後で判ったことですが、母と弟は、朝食の後片付ける台所で犠牲となり、今も行くへ不明で、原爆ドームの側の地面深くに眠っています。せめて苦しまないであの世に行ってほしかった(と)、祈らない日はありません。あきらめ切れずに、いつか帰ってくるのでは(と)、二人の葬式は今に行っておりません

現在では世界遺産となった原爆ドームの敷地内となっている田邊氏の生家の跡は、お母さんと弟さんの墓地なのです。ドームは墓碑なのでしょうか。
おばあさんも被曝と生活苦で9年後に亡くなり、ひとりぼっちになった田邊氏も、残留放射能の影響で苦しみつつ「なんとか生き延びてきた」という、その後の人生についてはつぎのようです。

原爆によりすべてを失った私は、家族のいない寂しさ、突然訪れた生活苦、被爆者への差別やいじめ、そして原爆への怒り、憎しみ、それらから逃れるため、それからの人生は、自らの被爆体験をひたすら隠してきました。忘れよう、思い出したくない(と)、原爆に背を向けて50年がすぎました

ところが、60歳になるころ、原爆ドームが世界遺産となり注目されるようになりましたが、被曝以前の情報がまったく伝えられていない事実を前に、田邊氏には、消されてしまった生まれ育った家と街「私のふるさと」の記憶が甦ってきたようです。
そこで、→職業である映像作家としての最新の技術を駆使する事業に取りかかります。
 『映像による爆心地の復元事業』です。

それによって「原爆炸裂の下には、伝統的な町並みがあり、普通の市民生活があり、多くの一般市民が、逃げるいとまもなく『何が起こったのか判らないまま』無惨にも犠牲になった事実を伝えた」のです。

8歳でふるさとのすべてを失った少年は、50年を経て動員した記憶を武器に、それまで怒り、憎み、背を向けてきた原爆に向かい合い、立ち向かうことを始めたのです。
何が破壊され消されてしまったかを知ることなしには「ヒロシマの実態と真実」は認識できはしないと訴え始めたのです。

この「被爆者自らが制作し、被爆者自身の証言で構成された」→爆心地記録映画は、国連や世界各地で注目されてきており、田邊氏も日本政府の非核特使として、74歳の病身を押して世界各地を訪問し講演し、記録映画を上映されています。
田邊氏により復元された爆心地のふるさと広島市猿楽町
2009年、オバマブームが起こった時に、日本の民放が田邊氏の事業をルポした記録を見ることができます。
『最新CG技術で・・あの日のヒロシマ・田邊雅章氏』と題されています→(1)(2)がそれです。是非見ていただきたいルポタージュです。

さて、講演で田邊氏はフクシマ事故に関して次のように語られました。

このたび、わが国では、未曾有の原子力発電所の事故を起こしました。目的は異なりますが、結果として人間は再び過ちを繰り返したのです。『核と人類は共存できない』現実を突きつけました。この現実を、私たちは真摯に受け止めなくてはなりません

そのうえで、新たな「核テロ」の脅威がでており、人類が生き延びるために「核廃絶」は人類の共通課題であると強調したうえで、ふたたび田邊氏は67年前の広島について語られました。

最後に被爆直後の光景を紹介します。『家族はきっとどこかで生きている』はかない希望を抱いて、市内に散在した原爆被災者の収容施設をめぐりました。そこで目にしたのが、悲惨な若い母親と赤ん坊の姿でした。すでに息絶えて首がたれている母親の乳を無心に吸い続けている赤児、それからどのくらい生き延びたことでしょう。
その逆もありました。焼け焦げた赤児を抱いて、無心に子守唄を歌う母親、わすれることができません。子供心に、何故、どうして、このようなことが起きたのだろうか。涙が止まりませんでした。どうか皆さん、ご自分の家族に置き換えて想像して下さい。他人事ではないのです。再びあってはなりません、繰り返してはなりません


あらかじめ準備された原稿を読みながら、田邊氏は静聴する人々をの前で、何度も涙を拭われました。

しかし、ここで講演は終わりませんでした。原稿にはない話しを続けられたのです。
広島の平和公園内だけでも、いまだに行方不明の犠牲者5000体が埋まっていること。そんなことは知られていないこと。
また、原爆は多くの孤児を生んだこと。彼らの多くが、家庭も持たず年老いて、孤児のままひとりで寂しく亡くなっていること、このような知られていない事実を挙げて「原爆は終わっていないのです」と述べる田邊氏の声は怒りにふるえていました。
Schumann Quartett Münchenの演奏

 終わりに、田邊氏はつい一週間前に聴いたという話をされました。
 8月6日、原爆が投下された8時15分にある父親が、広島市内に住む若い娘さんと電話で話していたのです。
 突然切れた通話に驚かされた父親が、娘さんを探し出したのですが、白骨化した遺体は受話器を握ったままであったとのことです。
ここで、涙を拭ったのは田邊氏だけではなかったのです。

 このようにして、ヒバクシャの実体験の報告に続いた、ドイツでも一流の弦楽四重奏の室内楽が、犠牲者への厳粛な追悼と鎮魂の音色となったのです。聴衆はヒロシマの惨禍を現在のこととして聴いたのです。

中根猛大使と田邊雅章氏ベルリン大使館で
コンサートが終わり、中根猛大使夫妻によるレセプションの場で、わたしは改めて、田邊氏に、フクシマ事故についての考えを質問しました。

 氏の返事の要旨は「講演で述べたようにフクシマでもヒロシマと同じことが起こっています。多くのふるさとが失われてしまっています。事故の後に、わたしのところにふるさとの街を映像で復元したいとの相談がありますが、私は断っています。理由は、ふるさとの復元は自らの力でしか出来ないからです。他人の力に頼るのは間違いです」
そして「これはマスコミに話すと腰が引けてしまい誰も書かないのですが」との前置きに続き「震災と事故の後で『絆』などと言っているでしょう。そんなものはないのです。こんども災害後に日用品の買い占めなどが起こっています。その方が現実なのです。誰も私を助けてくれませんでした。自力だけで生きてきたのです。自分でやるしかないのです」
「そのお考えを書いても良いですか」と私の問いに、「いいですよ、楽しみにしています」と話される田邊氏の厳しい表情に、初めて微笑みが現れました。

「絆などは無い。誰も助けてはくれない。自力でやれ」、この田邊氏の言葉は、ヒロシマのヒバクシャからの、フクシマの被災者への厳しい励ましの言葉として受け止めるべきでしょう。
また被災者でない援助者にとっての心構えを指摘していると私は受け止めました。援助したいと望む者も、助けることができるのは被災者自身だけであることを自覚した上での援助をすべきなのです。体験者の言葉は重いのです。

この日、田邊氏のお母さんと弟さんの67回忌ともなった心のこもった企画をされた、新任の中根猛在ベルリン特命全権大使は、→外交官経歴からしても核軍縮問題に長くかかわっておられ、冒頭の挨拶で、日独両国が先頭になって核軍縮を実現しなければならないと主張し、2006年に横浜の国連軍縮会議で田邊氏の講演を聴き、感銘を受けたことからドイツの4都市での講演に招待されたことを話されています。

先に報告しましたように、ここベルリンの大使館には7月29日には脱原発を訴える→日独市民のデモが押し掛けましたが、田邊雅章氏の「原爆であれ原発であれ核と人類は共存できない」とする講演が、その訴えへの大使からの一つの回答になっていると考えています。

少なくとも中根大使は野田首相よりははるかに立派です。

レセプションでは、わたしは、田邊氏が制作された広島復元の記録映画がドイツでの平和教育の教材になるのではないかと、日本側だけでなく、ドイツ側国務大臣や 政治家にも話しかけてみました。

この日は夏休みのため、日本の取材陣は多くありませんでしたが、翌7日の日本の朝には共同通信、TBS、NHKが全国へ報道しています。

参考のために以下記録しておきます。
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共同通信  


【ベルリン共同】ベルリンの在 ドイツ日本大使館で6日、被爆者で映像作家の田辺雅章さん(74)=広島市=の講演会が開かれた。政府の非核特使を務める田辺さんは「きょうは忘れられな い日。広島はこの世の地獄を体験した」と述べ、外交団を中心に集まった約100人の出席者に核廃絶を訴えた。
焼け焦げた赤ちゃんを抱き、無心に子守歌を歌う母親の姿が忘れられないと時折言葉を詰まらせながら、当時の様子を振り返った。東京電力福島第1原発事故についても触れ「核と人類は共存できないとの現実を突きつけた」と語った

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TBS

→被爆した映像作家CGで爆心地を再現 

 

広島への原爆投下から6日で67年となりましたが、ドイツ・ベルリンでは、自らも被爆した映像作家がコンピューターグラフィックスで爆心地を再現し、被爆体験を海外に発信する政府の「非核特使」として講演を行いました。

 原爆投下前の広島中心部。料亭など繁華街の姿や市民生活などが、当時の住民の証言をもとにしてコンピューターグラフィックスで再現されています。

  広島原爆の日の6日、ドイツ・ベルリンで、映像作家の田邊雅章さんが政府の「非核特使」として講演を行いました。田邊さんは自らの広島での被爆体験を伝え たあと、被爆者たちのインタビューに再現CGを交え制作した記録映画を上映し、原爆「以前」と「以後」で何が失われたのか、その恐ろしさを訴えました。

 「(原爆)以前のヒロシマがどんな街で、どんな人々が、どんな暮らしをしていたか、ほとんどご存じないんですね。非常に熱心に聞いていただいて、ヒロシマの真実を伝えることができました」(非核特使 田邊雅章さん)

 講演後には、平和のためのコンサートも行われ、会場は非核への願いに包まれました。(07日07:48)


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NHK

→広島の被爆男性ドイツで体験語る

広島原爆の日に合わせて、ドイツの首都ベルリンで、広島市の被爆者の男性が当時の体験を語り、核兵器の廃絶を訴えました。
ベルリンを訪れたのは、広島市の映像作家で、7歳のとき疎開先から原爆投下直後の市内に戻って被爆 した田邊雅章さん(74)です。田邊さんは6日、「ヒロシマ通り」と名付けられたベルリン市内の通りに面して建つ日本大使館の公邸で、ベルリン駐在の各国 大使や政府関係者らおよそ100人の出席者の前で、みずからの体験を語りました。
田邊さんは、原爆ドームの隣にあった自宅が原爆でがれきの山となり、両親や弟を失った体験を語り、「当時の生活は口にすらできないほど過酷で残酷だった」と振り返りました。
そして「自分の家族に置き換えて想像してください。決してひと事ではないのです」と語りかけて、原爆の悲惨さや核兵器の廃絶を訴えていました。
このあと、田邊さんらが制作した、当時の広島市内の様子を再現した記録映画も上映され、訪れた人たちは原爆投下直後の街の様子や、住民の証言などを真剣な表情で見ていました。
田邊さんは、「原爆によって、今も多くの人々が苦しんでいることはあまり知られておらず、こうした真実を伝えていくことが、私の役割と考えています」と話していました。

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なお、ある日本人在住者の方による、ベルリンに先駆けて→ライプチッヒで行われた公演の報告があります。

ここではこのテーマには立ち入りませんでしたが、ドイツに長く住んでいる方として、講演を高く評価しつつ「加害と被害のバランスが崩れているのでは」との指摘があります。ぜひともご参考までにご覧ください。
この「加害と被害の歴史認識」に関する日本社会の決定的弱さに関しては、拙稿→「フクシマが日本社会に問いかけているもの」をご覧ください。

3 件のコメント:

  1. 「加害と被害の歴史認識」の染み込んだつぶやき、私の思い。
    だからどうするが無い情緒帰結で終わっている・・・。
    無意識に流れていた情緒解放を認識した次第。

      忘れがたき故郷( 情 )
      忘れがたき禍根( 理 )
      心魂の悔やむ今( 和 )

    欠けていた言葉はこれです。
      「非核の世紀を志す」



    20世紀の"HIROSHIMA"+21世紀の"FUKUSHIMA "
    20世紀の暴挙を21世紀に再認識しても、まだ懲りないのかと。

      核兵器と原子力は同じです( 橋爪 分 )

    兵器も原子炉も同じ核物質の異なる姿。
    「クリーンエネギー」と「スマートウエポン」は二枚舌。
    美辞麗句で言い訳しても、強奪経済と戦争殺戮兵器にすぎません。

    持続可能な21世紀には、
    非核エネルギーの開発と核廃絶が必須。

    「 非核の21世紀 」

    「 NO NUKES 21C 」

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  2. 誤変換の訂正:橋爪 分 → 橋爪 文

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  3. 訂正:コメント文中の「核兵器と原子力は同じです」、私の聞き覚えを訂正します。
    NHKラジオ深夜便の橋爪文氏インタビューで「原発と原爆はおなじもの・・」と氏は語られています。
    ほんとうに本来のメディアらしい良質品位のあるインタビュー番組でした。
    橋爪文氏のまさに百の説法を超えた一言、
    「原発と原爆はおなじもの」はきっちりと記憶に残りました。

    詳しくは放送された内容についての小野医師のグログをご覧下さい。
    http://onodekita.sblo.jp/

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