(2)「人生の嘘」という言葉について解説します。
これは日本社会が脱原発を実現するにあたっても、大変役に立つ言葉/概念でもあると考えているからです。かなりの長文になりますので、お暇な時にお読み下さい。
明治42年といえば、今から100年以上前の1909年のことですが、この年に森鴎外は「當流比較言語學」あるいは「Resignationの説」などで、欧州にあって日本語に欠落している言葉について論じています。これを読むと、Resignation/諦念、あきらめ、断念、といった今では日本語にも定着している言葉/概念が、鷗外のころにはまだ無かったようです。まったく大変だったことでしょう。
しかし、この問題は歴史と文化を異にする外国語を学ぶもの、もちろん文学者や翻訳者にとっては、いわば永遠に逃れられない宿命的な悩みのようなものです。現在でもいささかも変わりません。
ここの第12: http://tkajimura.blogspot.com/2011_07_01_archive.html
で紹介したドイツ誌の記事のタイトル:Ausstieg aus der Lebenslüge/人生の嘘からの撤退、で使われている「人生の嘘」という言葉も、日本語には概念が欠落しているために、これだけでは何のことか理解できません。これはわたしが筆者のクリーナー氏の問いに答えて使った言葉(4月29日)ですので、その部分だけを翻訳しましょう:
Wie konnte man ausgerechnet in dem am massivsten durch Erdbeben gefährdeten Land der Welt 54 Atommeiler in geologisch teilweise superaktiven Gebieten bauen? Wie konnte man sich nach den 250.000 Opfern von Hiroshima und Nagasaki in ein atomares Energiegefängnis einmauern? Die Antwort ist bekannt: Japan wollte das Leid der Atombomben in etwas Gutes verwandeln. Der wirtschaftliche Erfolg sollte die Leichenberge zudecken – mit Hilfe der friedlichen Atomtechnik als Motor eines rohstoffarmen Landes. „Alle haben diese Lebenslüge geglaubt, jetzt ist sie offenbar geworden, deshalb diese Fassungslosigkeit“, sagt Kajimura.
なぜよりによって世界でも地震に最も脅かされている国において、地学的に部分的に超活動的な区域に54基の原子炉を建設できたのか? なぜヒロシマとナガサキの25万人の犠牲の後で、原子力のエネルギー牢獄のなかに閉じこもることができたのか? 回答はよく知られている:日本は原子爆弾の苦悩をいささか良いことに変えようと望んだのだ。経済的な成功が死体の山を覆い隠してしまうべきであった=資源に乏しい国の発動機としての平和的原子力技術の援助によってである。「みながこの人生の嘘を信じ込んだのです、それがいま公然となってしまった、だからこのように唖然としているのです」と梶村は述べる。
本稿ではこのように欧米では定着しているこの言葉/概念が、なぜ日本には欠落しているかとの考察はしません。読者のみなさまがそれぞれお考えになって下されば幸いです。
ただ、これだけでは理解が難しいと思われますので、この言葉をキーワードとしてちょうど4年ほど前に書いた論考がありますので、それを以下に再公開しておきましょう。これは歴史修正主義批判として執筆したものです。
原文は「週刊金曜日」が2007年12月に発刊した単行本『日本はどうなる2008』に掲載されたものです:http://www.kinyobi.co.jp/publish/publish_detail.php?no=237&n=na&page=1
以下全文引用:
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歴史改竄者たちにおける「人生の嘘」について
ごく平凡な人間から人生の嘘を奪ってごらんなさい、
それは同時に、彼の幸福を奪ってしまうことになりますよ。
(イプセン戯曲『野鴨』より)
イプセンの戯曲「野鴨」
これはノルウェーの作家ヘンリック・イプセンが、一八八四年に書き下ろした心理劇『野鴨』(注1)で、登場する医師に語らせた言葉だ。二〇〇七年九月十二日、突然の辞任表明をする安倍首相の表情を見ながら、この台詞を思い出した。
内閣改造を終えて、国会で所信表明を行ったわずか二日後、衆議院本会議の開始直前のこの辞任劇は、日本の国政史はもちろん、おそらく世界の近代政治史でも前代未聞のできごとだろう。「日本の政治家とはこんなものか」と世界中が、その無責任ぶりに唖然とした。
同年七月末の参議院選挙で大敗の後の八月の半ばごろから、東京の安倍番記者たちから「安倍自殺説」が、ベルリンの日本人特派員の間にも届いていた。ために辞任表明後に入院したとの報道に、「あるいは」と、悲惨な自殺で終わるこの古典悲劇をさらに連想した。彼の内閣で現役大臣が自殺していることもあるからだ。
だが、それもあっさり杞憂に終わった。退院を前に「これからも国会議員を続ける」と述べるのを聴いて、この人物が責任感などとはどだい無縁な俗物でしかないことがはっきりしたからだ。これでは、遺書に「安倍総理、日本国万歳」と書き残した松岡農水大臣(当時)の浮かぶ瀬もあるまい。
ちょうど二年前のドイツの総選挙で、僅差で敗北したシュレダー首相は、大連立政権構築の交渉を終えると、いさぎよく国会議員の席も後進に譲って政界を引退し、一介の弁護士となってしまった。「宰相の政治責任の取り方」とはこういったものなのだ。無責任ぶりをさらけ出した後も議席にしがみつく安倍氏のありかたとは見事な対照ぶりではないか。これで安倍氏はおそまつな喜劇の主人公として終わった。政治生命が失われていることが自覚ができない鈍感さは滑稽である。彼は誇り高い野鴨ではなく、恥知らずな家鴨(アヒル)だ。
「辞任の理由は健康問題だ」と説明している。だが、健康を損ねるに到った根本原因を自覚していないようなので指摘しよう。ほかならぬ彼の歴史認識での「人生の嘘」が奪われ不幸になったからだ。
イプセンの戯曲では、親友から妻の「人生の嘘」、すなわち娘が自分の実子ではないことを知らされた父親が、娘を愛することができなくなり、父親の愛を取り戻そうとする無実の娘が自殺してしまう悲劇だ。個人生活では、このような「嘘」は秘密のままであったほうが、しばしば幸福であろう。
だが、イプセンのこの言葉を使い、個人でも「無意識な人生の嘘=自己欺瞞」を自覚することが、精神の安定に役立つことを指摘したのがアドラー心理学である(以来欧米では、この概念は、社会学や文学でも援用され定着している)。ましてや、南京大虐殺、沖縄の集団自決と「慰安婦」の軍による強制などの史実を、故意に抑圧する勢力がはびこり、そのことに無自覚である社会が健全であるとはとても言えない。それは不安で不幸な社会だ。
不良中学生内閣
安倍内閣が成立した時、わたしは「これは歴史認識で不良仲間の生徒たちが校長室を占拠した中学校のようなものだ」と喩えたことがある。なにも日本の国会議員諸氏を、まとめて侮辱するつもりはないが、ドイツの議会政治と比べての正直な感想だ。安倍政権の一年を回顧して、この見方が正しかったことは明らかだ。
もちろんドイツの国会議員にもお粗末な知性の持ち主がおり、日本の議員にも優れた人物が少なくないことはそのとおりだ。だが平均すれば、両国の国会議員は知性の質で、大学生と中学生ほどの落差がある。くわしく述べないが、その要因としては、まずは政治教育での鍛えられ方の違いがある。特別に顕著な点は、普遍的な人権擁護と、歴史認識についての厳しさでの極端な違いである。「女性は産む機械」などの発言は、ドイツでは田舎の村会議員でも辞職ものだ。
何よりも、自国の戦争犯罪を否定したり、相対化する発言は論外である。二〇〇二年に保守党のキリスト教民主同盟のマーチン・ホーマン議員が、地元の集会で、ロシア革命に多くのユダヤ人が参加していたことを指摘し、「この点ではユダヤ人を『犯罪者民族』と呼べるかもしれない」と発言したことが大問題となった。彼は、自会派からの議員の辞任勧告を拒否したため、党籍を剥奪され、たちまち政治生命を失った。メルケル党首(現首相)からは「この思考構造はドイツの民主主義とは一致しない」、また姉妹党のキリスト教社会同盟のシュトイバー党首からは「彼は憲法の枠外にはみだした」と断罪された。ドイツの戦後史で国会議員が党籍を剥奪されるのは初めてのことだ。
さらにこの「犯罪者民族:Tätervolk」という言葉は、言語学者たちによる毎年恒例の「最悪の言葉賞」に選ばれる「栄誉」に輝いた。その理由として、まず「集団の罪」というものはありえず、そして、ありもしないものをユダヤ民族に適用するのは、まぎれもない反ユダヤ主義、人種主義であるとの指摘があった。つまり、彼の世界観とは、根強い反共主義と反ユダヤ主義の結合であり、このような歴史認識は、間違っており過去の亡霊でしかないということだ。だが彼自身は、なぜこの発言が問題であるのか理解できず、世界観の崩壊と政治生命の喪失ですっかり不幸になった。
こうして彼の発言は「ホーマン事件」としてドイツ政治史に残ることとなった。ちなみに、第一次世界大戦後に「戦争犯罪でドイツ人に集団の罪というものはない。罪は無責任に戦争を煽った政治家、軍、新聞などの指導部にある」と一九一九年にいち早く指摘したのは、前述の心理学者アドラーである。
世界が見捨てた
では、一国の首相が同様な発言をしたらどうなるのか。安倍首相の「慰安婦強制否定発言」が、国際世論のなかでまったく同じことになった。そもそも安倍内閣の大半の閣僚が、国家主義(日本では靖国派として顕現する)と根強い反共主義の歴史認識の持ち主であり、この点では、冷戦体制崩壊と、その後の経済のグローバル化のなかでの世界的傾向に即したものだ。旧東欧諸国はもちろん、西欧諸国でも反共右派の国家主義政党が、さまざまな装いで台頭しているのは事実だ。日本も例外ではない。ドイツですら、主に旧東独地域の地方・州議会に極右政党が議席を占めて、現在でも大きな問題だ。
ただ、日本では安倍内閣の成立により、彼らが政権を獲得してしまった。「美しい国」をスローガンに、教育基本法を改悪し、防衛庁を省に格上げし、国民投票法を実現し、さて一瀉千里に憲法改悪を実現しようとしたのが、ほかならぬ安倍政権だ。この政権がつまずいたのは、「政治と金」や「年金」であると一般的には信じられている。もちろんその要素も大きい。しかしこれらは、この政権の特徴ではなく、以前からの日本政治の構造的問題なのだ。特徴は歴史認識にあった。これが安倍首相のアキレス腱であった。
二〇〇七年二月の米下院外交委員会の慰安婦問題公聴会に関連し、自民党議連で河野談話を見直そうとする動きがあることについて、安倍首相は三月一日の記者会見で「当初、定義されていた強制性を裏付けるものはなかった。証拠はなかったのは事実」と答弁し、さらに五日の参議院予算委員会で「狭義の強制性」を「官憲が家に押し入って、人さらいのごとく連れて行く行為」と定義した。本人はいまだに自覚していないだろうが、これが安倍氏が「人生の嘘を信じ込んでいる」ことの告白となった。外交での安倍政権凋落の始まりだ。
たちまち欧米のメディアが反発し「歴史修正主義者安倍と背後の極右勢力」に関する報道が始まった。さらに、十六日には辻元清美議員の質問書に対する政府答弁書で、同様の回答があったため、慰安婦問題を抱えるオランダのバルケンエンデ首相が激怒し、日本大使が召喚された。対欧米の外交問題となったため「河野談話遵守」路線へ転換してアメリカやオランダに対応したものの、ことすでに遅しであった。
当時わたしは「政府答弁書は安倍内閣が歴史修正主義の立場を採ることを閣議決定で表明したことになる。撤回する以外に、国際社会ではいかなる弁明の余地もない」と指摘した(注2)。そのうえで『週刊金曜日』で、オランダ臨時軍法会議の強制売春を裏付ける史料を連載で公表しつつ、同時に世界の動きも伝えた(注3)。その間、決定的であったのは安倍氏と同様な歴史観の極右議員らによる、ワシントンポスト紙での広告掲載だ。日本の歴史改竄主義者たちが、その名に恥じない「歴史歪曲の事実=嘘」をわざわざ英文で掲載したのだからたまらない。アメリカで安倍氏を擁護する声はゼロになった。結果が参院選翌日の米下院本会議での「慰安婦問題での日本政府の謝罪要求決議」の反論なしの採択である。これは、アメリカの議会による同盟国日本の安倍政権に対する事実上の不信任決議に等しい。前代未聞の出来事であり、ここでアメリカは日本の極右勢力を、正体見たりと見捨てた。
参院選惨敗、謝罪要求決議、内患外憂ここに極まり、安倍氏は食も細ったようだ。世界には決して通用しない彼の世界観が破綻したのだ。「史実の銃弾」に翼を撃ち抜かれた、あわれな家鴨となった。こうしてホーマン議員と同じく、安倍政権はその歴史認識で世界世論から排除された。
信頼回復のために
さて福田政権は、安倍改造内閣のお下がりにすぎない。世界に通用しない改竄史観の閣僚、つまり不良仲間の中学生も、そのまま多く残っている。いずれにせよ、二〇〇八年の、遅くとも夏の総選挙までの過渡期政権にすぎない。
また世界情勢も、〇八年はアメリカの大統領選挙後の民主党政権へ向けて大きく変化する。東北アジアでは、南北朝鮮が和解の歴史的な段階に入る可能性は大きい。小泉、安倍政権の偏狭な歴史観のために、北の核問題での六カ国協議ひとつでも、日本は外交で最後尾のお荷物になってしまっている。「拉致問題」に拉致されてしまって、動きのとれない政権ではいけない。必要なのは北朝鮮との国交樹立を具体的に政策化する政権だ。そこでは北朝鮮だけではなく、アジア諸国の「慰安婦」や強制労働の戦争犯罪被害者に対して国家責任を明らかにし、被害補償を実現する立法も不可欠である。
それを実現する政府と議会を持った時に、日本の政治も失われた信頼を回復し、世界の大学生の仲間入りができるであろう。不幸の原因たる「人生の嘘」を自覚しない限り、決して人も社会も健康で幸せにはなれないのである。(引用本文おわり)
(この項途中で切れています。23をお読み下さい)
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