2016年5月25日水曜日

323:オバマ大統領広島訪問に同行予定の日本軍元捕虜ダニエル・クローリー氏の貴重な証言

26日追加:
 昨日わたしが得た情報が、残念ながら事実であったと、今朝NHKが伝えました。
 →オバマ大統領広島訪問 元米兵の同行は見送り
そこにはトンプソン会長の言葉として「この結果に失望している。元アメリカ兵の派遣は和解などの力強いシンボルになると思っていたので、アメリカにとっても日本との同盟関係にとっても損失だ」と批判の言葉があります。
これで、明日の広島訪問はオバマが献花の後でヒバクシャ代表と少し言葉を交わすだけの内実の薄いものとして終わるでしょう。非常に残念です。(以上青字は追加です) 

 本日25日、G7のため日本入りしたオバマ大統領に元米軍の日本軍捕虜団体の代表が広島訪問に同行し、被爆者との面会もあるのではないかとの報道が多くありました。わたしのところには、はたしてそれが実現するかどうかは危ういとの情報も現時点では届いています。
 
 もし実現できなければ大変残念なことです。アメリカ大統領の初の広島訪問という、歴史的な機会に、「原爆投下で命が救われた」という奴隷動労を強いられた元捕虜と、最悪の人道犯罪の犠牲者であるヒバクシャが出会うことは非常に貴重な出来事であるからです。実現すれば,大統領訪問に日米の被害者が共に内実を付け加える真に歴史的な出来事となるであろうからです。またそれは、両者の年齢からしておそらく最後の機会になるかもしれないからです。
 
 実現するか否かはさておき、同行することになっているダニエル・クローリー氏(1922年5月生まれ、現94歳)との二年前のインタヴューがありますので、それを以下紹介します。
 これは、日本軍による連合軍戦争捕虜の実態を調査する→POW研究会という日本の市民団体の一員である ジャーナリストの 西里扶甬子(にしざとふきゆこ)氏が2014年の5月に当時92歳のクローリー氏にカルフォルニアで行ったインタヴューのご自身による翻訳の全文です。
  なぜアメリカでは「原爆投下が多くの人命を救った」という世論が強いのかを知る上でも、日本ではほぼ無視され続けている、いまだに悪夢にうなされるクローリー氏の体験証言は日本の歴史としても重要です。史実を知り解釈をする上での資料として貴重であると考え、読者のみなさまにお伝えします。

 原文はPOW研究会では資料として知られていますが、一般公開はこれまでなされていないとのことですので、西里氏の了承を得て以下紹介させていただきます。したがって、このインタヴュー報告の全文の許可のない転送はしないで下さい。一部を引用しての紹介は歓迎しますが、必ず引用元を明記してください。

以下インタヴュー翻訳全文:
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           Interview 
   Daniel Crowley(ダニエル・クローリー) 92歳 
ADBCAmerican Defenders of Bataan & Corregidor=米軍バターン・コレギドール防衛隊戦友会)メンバー

DanKelly Crowley at ADBC Annual Convention in San Jose,
California May 2014


 米軍が日本軍に降伏


私は194249日バターン半島で日本軍に降伏したエドワード・キング将軍の指揮下にあった。私を含む数百人は降伏を拒否してコレギドール島を目指した。日本軍は降伏した米軍の対応に忙しいと分かっていたので、夜になるのを待って、死体の浮かぶ海を泳いだ。私は幸いなことに民間のライフボートの脇に隠れて泳いだ。

コレギドール島についてから、海兵隊第4連隊に加わった。私はもともと陸軍航空隊所属だったが、194112月のマニラ空襲の時点で、すべての航空機は日本軍の爆撃で破壊されてしまったので、歩兵に編入させられた。我々は歩兵としては全く何の訓練も受けていない、操縦士、整備士、修理工、コック、事務職などの集まりだったが、すぐに歩兵として働けるようになった。そして、194256日ジョナサン・ウェインライト将軍が再度降伏した時、それに従った。

コレギドール島からカバナツァン捕虜収容所までの「死の行進」

故にバターンデスマーチは体験しなかったが、別のデスマーチを体験する羽目になった。
それはコレギドール島から始まった。およそ12000人ほどが2.5エーカー(約10平方m)の農場内の土地に押し込まれた。水道は一個しかなく、食料も無かった。日中はさえぎるものなく陽にさらされ、気温はゆうに摂氏60度にも達しようかという暑さだった。
その状態が約3週間続き、地面は人間の排泄物に覆われた状態だった。

 それから小さな船に載せられ、マニラまで輸送された。そこで並ばされ、日本軍の将校が剣を抜いて護衛する中、マニラ市内まで行進させられた。沿道にはフィリピンの人たちが並んで眺めていた。フィリピンにおいては、もはやアメリカ人ではなく日本人が頂点にあるのだということを誇示するための見せしめの行進だった。
 
 弱りきった我々に水や食べ物を渡そうとしたフィリピンの人々は、残酷に殴られたり、殺されたりした。長い距離を行進させられてから、今度は貨車に押し込められた。この貨車では座ったり、横になったりするスペースはなくて、立ったままで立錐の余地もないという状態だったから、また床は人間の排泄物に覆われてしまった。
 全体で何人くらいだったのか全くわからないが、酷い暑さと湿気で窒息状態だったから、かなりの人数が死んだと思う。

 到着したところから、カバナツァンの捕虜収容所まで歩かされた。その後、この収容所ではおよそ3000人が死んだ。水や食料、医療の欠如の結果殺されたという表現の方があったっているだろう。その中には100人のウェストポイント陸軍士官学校の出身者が居た。一ヶ所でそれほどの人数の陸軍士官学校出の将校が死んだというのは歴史上初めてのことだった。
 
 カバナツァンからパラワン島へ


カバナツァン・キャンプから私は数100人の仲間と共にパラワンのジャングルに飛行場をつくる仕事のために送り出された。すべては手仕事だった。木を切り倒し、根を掘り返し、珊瑚の岩を掘り返して、手押し車に載せて34キロ先まで運んだ。肉体労働としては想像できる範囲のもっとも過酷なものだった。

私はセメントの粉にまみれて地中にセメントを流し込む仕事を担当した。皮膚についたセメントは汗でぬれやがて固まって、体中セメントのかさぶたで覆われていた。顔は目だけが窪んでいるというような状態だった。一日の仕事を終え、船でもどると、人を刺すクラゲのいる海に入って、セメントを洗い流した。

何日間その仕事をやったのかは忘れたが、飛行場の地盤にセメントを流し込む仕事を終えると、次には滑走路の表面を舗装するセメントに水を加えて混ぜる仕事に回された。そこではセメントと砂を混ぜる割合を指示通りやらずにサボタージュを試みた。滑走路の表面はそれによって意図されたよりはずっと弱いものになったはずだ。しかし、看守兵たちは田舎の出身らしく、セメントというものを見たことがないようで、我々がやっていることには全く気づかなかった。
 
 とうとう飛行場が完成して司令官の岸本大佐は何も気づかずに我々を「大日本帝国」に「忠実な戦士」と呼んだ。司令官機が完成したばかりの飛行場を初めて飛び立った日、その旧式の飛行機は機首が上向きになると、機尾が滑走路の表面を削る羽目になった。それでもそれが、我々のサボタージュのせいだとは気がつかなかった。米軍海兵隊がついにパラワン島に進攻した時、彼等は結局この飛行場を使用するにはスチールの板を滑走路の上に敷かねばならなかった。

 日本兵に肩の骨を折られて命拾い―地獄船で日本へ


 監視兵の扱いは酷いものだった。彼等は一人で10人の捕虜を担当していた。例えば私達の担当の監視兵は吸いかけの煙草の吸い口をベロベロなめて唾をつけ、我々10人が輪になっている真ん中に捨てたりして、それに10人が群がるのを見て喜んでいた。
 
 また、どこにも逃げようのない場所だったが、ちゃんと働かないと棒で叩かれた。ある日私は余りにも酷く叩きのめされて、地面に倒れた。そこをさらに叩こうとして棒を振り上げていたが、別の監視兵が止めた。私はそこで叩き殺されていたかもしれないが、止めた監視兵は私を死体にするより、生かした方が価値があると思ったのかも知れない。

 棒で酷く叩かれたことで私の肩の骨は折れてしまった。米軍の軍医が私は空港建設の労働力としてはもう使いものにならないとの診断を下した。もう一人、仲間が間違って鉄の棒を振り下ろしてしまったために腕の骨を砕かれてしまった捕虜と一緒に小さなボートで、マニラに戻された。
 日本軍の軍医に診療して貰ったが、私の場合は骨折なのでなおったらまたパラワンに戻れと言われるのではないかと恐れたが、驚いたことにこの軍医はカリフォルニアの大学で医学を勉強したということで英語を話した。私は便所で転んで肩の骨を折ったといい続けていたので、頭がおかしくなったと思われていたが、この軍医は「お前は賢い」と言っただけだった。

 私は一度カバナツァンに戻されそれから、マニラ港から日本行きの地獄船(Hell Ship)に載せられて、19443月に日本に着いた。時期的にはアメリカ軍が日本のあらゆる船を爆撃して沈めてしまう作戦に出る寸前だったので、マニラから出たほとんど最後の船だったと思う。この地獄船の名前はと聞かれても思い出せないが、我々は「便所丸」と呼んでいた。他の地獄船(捕虜輸送船)も同じようなものだったとは思うが、私達はこの「便所丸」のデッキから3、4階下の船底に押し込まれた。立つこともできない、横になることもできない、うずくまっている他ないというような場所だった。外光はまったく入らなくて真っ暗だった。真ん中に穴があって、食料は綱で吊り下げられ、死体はそこから吊り上げられた。
パラワンの虐殺事件はこの年の12月だったから、肩の骨を折られたお陰で焼き殺されずに済んだということだ。

足尾銅山での奴隷労働
 
 日本のどの港に着いたのかは全くわからないが、最初の日立の銅山の近くだったと思う。日立で数ヶ月働かされた後、列車に載せられて、足尾の銅山に着いた。我々は5600人だったと思う。我々の木造の宿舎は郊外の川の傍にあった。

 毎朝縦坑まで行進して、バケツ状のエレベーターで600mの地底に下りて働いた。このシャフトは岩がむき出しになった縦穴で、一度に25人が詰め込まれた。縁は腰のあたりまでしかない。このエレベーターはスチームエンジンで巻き上げ機を動かして鉄製のケーブルを操作することで上下しているのだが、このレバーを操作している運転手は、毎回地底から130mくらいのところまで急降下させると、急ブレーキをかけて我々25人が乗ってるバケツを止め、それから激しく上下に揺する遊びをしたもんだ。この銅山は始業が16世紀ということで、何もかにもみんな古い。バネもケーブルもみんな錆びているのは分かりきったことだからそのたびにハラハラするわけだ。

 鉱道も元々我々と比べれば小柄な日本人用にできているから、背筋を伸ばせなくてしんどかった。経営者の古河(鉱業)は、米軍捕虜の奴隷労働者の安全などほとんど気にかけていなかったのだと思う。

私は一度、ダイナマイトの専門家と一緒に働いたことがあった。我々捕虜があけた穴に火薬をしこむと、彼が煙草で火をつける。彼は自分が合図するまで逃げなくていいと言って、煙草を落とすと一緒に鉱道の陰まで走った。数秒で爆発音が聞こえ、煙が流れてきた。

 我々は日本人の監督に率いられた、朝鮮人とインドネシア人(蘭印軍捕虜)の奴隷労働者と一緒に働かされた。監督は民間人で、親切にしてくれた。時には自分の弁当を分けてくれたりした。ゆっくり休憩しろ、ただし、憲兵が見回りに来たら素早く働いているふりをするようにとも言ってくれた。

 他には坑道の補強のために必要な木材を運ぶ仕事をさせられた。長い木材を背中に背負ってシャフトの壁の梯子を上って、上まで着いたところで、一人では上がりきれないので、日本人の坑夫に木材をまずあげて貰ってそれから自分が上がるということになっているのだが、彼等は時に我々をからかって、木材を動かしたりして、なかなかあげてくれない。それは真っ暗な中なのでひどく怖い。

 今でも見る悪夢


 パラワンでの過酷な労働と監視兵の残酷な仕打ち、そしてこの足尾銅山でのダイナマイト爆発と暗闇の中で重い材木を背中に背負ったままシャフトから上がれずに恐怖に焦る場面は悪夢によく出てくる。今でも捕虜時代の悪夢を見る。妻に聞けばよく分かるが、私は
悪夢を見ると眠ったまま、足をバタバタさせるそうだ。
 
 食料の配給量は極めて貧弱だった。何とか命をつなぎとめる程度の量だった。大体一日700kcal程度の食料しか与えられていなかった。我々が強制された労働からして4000kcal
程度は必要だったと思う。そのような貧弱な食事を続けていると、体脂肪も筋肉も消費するだけで失われてゆく。体はどんどん縮んで行く。どうして、あのような状態で生き延びることができたのか、それは謎といってもいい。
 42ヶ月の間、あのような状況で生き延びることができたのは、奇跡といってもいい。多分彼等の仕打ちに対する燃えるような憎しみ、いつか国に帰って彼等に対価を払わせてやるという決意というようなものが我々を生かしてくれたのだと思う。彼等は私が知る限りにおいて、最も残虐な人間たちだった。我々が人間ではなく、虫けらのように扱われ、命さえおろそかにされたことは、日本政府にも責任があったと思う。日本軍は兵隊を教育するとき、「中国人を人間と思うな、丸太と思って殺せ」と教えたと聞いているが、我々も全く同じように扱われた。死因としては、餓死、病死、そして生きる意志を失うことだ。

 終戦と帰国

戦争が終わった日のことはよく覚えている。その日は朝から仕事にでなくてよいと言われ、昼に天皇のラジオ放送があった。我々は何を言っているのかわからなかったが、英語も日本語もできる太った中国人の料理人がいて、終戦になったことを教えてくれた。

監視兵などの正規軍はいつの間にかいなくなって、ボーイスカウトが軍服を着たような少年兵がやってきた。外に出ると、敗戦でやけになった過激な連中に危害を加えられるかもしれないと言われて外出しないようにしていた。米軍が食料をふんだんにバラシュートで投下してくれたので、食べまくった。収容所にいた少年兵たちにも分けてやった。

我々が脱出する列車が来たのが94日で、それまでの間に我々は食べて食べてすっかり太ってしまった。横浜で米軍の軍医に診察を受けた時には軍医も驚いていた。列車で横浜まで来る間に駅に止まるたびに、日本の子供たちにキャンディを渡してやった。
横浜では消毒のスプレーをかけられ、新しい軍服を支給されて厚木まで車で移動し、即日マニラまで飛んだ。マッカサー将軍は、我々捕虜は日本軍から酷い扱いを受けたことに
怒っていたので、何か騒動が起こることを恐れていたのだと思う。
 
 マニラから遅い船で帰国したが、最初の年に多くの元捕虜たちが死んだ。長い間飢餓状態におかれた人間の医療という意味では、アメリカの医者たちは全く経験がなかったので、どうしていいかわからなかったのだと思う。
 
 我々は一日50銭と書かれた軍票で支払いを受けていたが、これで買えるものなど何も無かった。終戦と共にこれは紙くずになってしまった、「便所ペーパー」の役にも立たない。あの過酷な奴隷労働の対価をいつか払って貰おうとそれだけを思いつめてこの70年を生きてきた。しかし、憎しみが私を92歳まで生かしたとは思わない。人生を楽しもうとしてきたことが良かったと思う。66年間連れ添った前妻が死ぬ前に「自分が死んだら、若くて素敵な女性を見つけて結婚しなさい」と遺言した通り、私は若く素晴らしい女性に会うことができた。生きていることを楽しんでいる。

  原爆について

原爆は私の命を救っただけでなく、恐らく2000万から3000万人の日本本土の日本人の命を救ったと思う。もし戦いを続けていれば、その位の日本人が死ぬことになっていたと思う。その上恐らく200万人の英、米、豪などの連合軍国民が死なずに済んだと私は思っている。日本軍のやり方からして、日本軍は中国、朝鮮半島、東南アジア、インドネシア、フィリピンなどで無数の殺戮を続けていただろう。

日本軍は占領した各地の指令官に対して「恐怖による支配」を指令していた。「強姦」はその手段の中でも占領地の住民を震えあがらせ、屈服させる最も有効なものとみなされていた。砲弾は貴重だから使うまでのことはない。「恐怖」で征服すればよいという考えだった。捕虜の殺し方だってリストアップして、各地の収容所に送られていた。どれでも好きな方法を選べという訳だ。

原爆は非戦闘員を大量殺戮するという残酷な兵器ではあるが、とにかく戦争を早く終わらせる必要があった。日本の指導者は日本は軍事的にはすでに敗北していることを認めようとせず、戦争を長引かせていた。指導者は何とか自分達が食べる食料はあって、比較的安全な場所に身を置いて戦争を指揮できるならば、何が何でも戦争を続けようとしていた。しかし原爆によって、もう彼らの安全を確保できる場所はどこにもないということに、初めて気づかされた。だから、とりあえず、一時的に降伏して、折をみて復活するのだという考えを持った。そして、事実そういう軍国主義者たちが、今の日本を牛耳っている。我々は優秀だから再び表舞台に出現するのだという訳だ。嘆かわしいことだ。

(インタビュウ&翻訳;西里扶甬子201461日 ハイアット・プレイス・サンノゼ・ホテルにて) 

2016年5月24日火曜日

322:オバマ大統領の鼎の軽重を問うアメリカの良心たちの書簡:ヒバクシャとの面会と謝罪を求める

 日本の本日夕刊でも伝えられているように、昨日(23日)付けで、アメリカの74人の著名な知識人や文化人が連名で27日のオバマ大統領のに対し、広島訪問ではヒバクシャたちと直接面会して彼らの体験と思いに接し、謝罪と原爆投下に関する歴史議論を再考し、プラハで約束した核軍縮に努力するように促しました。

英文原文はこちらです:

→Urge Obama to meet Hibakusha, TakeFurther Steps on Nuclear Disarmament

  これに関するプレスリリースと書簡の日本語への翻訳はこちらです読むことができます:
→Peace Philosophy Centre

 この書簡のはじめにノーム・チョムスキーやオリバー・ストーンたちの、自らのヒロシマ訪問とヒバクシャのとの出会いが「深淵で人生が変わるような体験であった/a profound, life-changing experience」と述べています。まさにアメリカの良心の願いといえましょう。
 
 これは前回報告した→日本からの声にも呼応するものですが、オバマ大統領の核軍縮への意志がどれほど強固なものであるのかが、広島での彼の行動で試されることになります。すなわち、彼のアメリカ大統領としての鼎の軽重が問われているのです。

日本からの報道によれば、当日は慰霊碑の献花の場にヒバクシャも参加することで調整中とのことですが、メーッセージを読み上げるだけで彼らの話しも聴かないようなことにでもなれば、失望も大きく、またしてもヒバクシャを利用したと厳しく批判されるだけです。

 27日にヒバクシャに面会もせず、謝罪もしないで終われば、ドイツの新聞がすでに→論評でそれを予見したように世界は最終的に大統領としての彼に失望するでしょう。

2016年5月23日月曜日

321:オバマ「広島で謝罪はしない。それは歴史家の仕事」。歴史家の検証結果は謝罪要求である。

 前回はオバマ大統領の広島訪問を前にした、原爆投下を巡る日米の歴史認識の矛盾を指摘した→「南ドイツ新聞」の論評を照会しました。
 
 そこに今朝(23日)NHKが訪問を前にしたオバマ大統領との単独インタヴーに関して→特設欄で「ヒロシマからオバマ大統領へ」として伝えています。ヒロシマの声を彼に伝えようとするものです。ここで見られる4名の方の証言の中で、89歳の阿部静子さんのお話はぜひご覧ください。71年後の憎しみを越えた思いが語られています。
 そして大統領との→単独インタヴューのビデオと邦訳全文も特設で報じています。

そのなかで、以下の質疑応答が見られます。一部引用します(強調は筆者)。

Q3
広島訪問とい大統領歴史的な決断を歓迎しますなぜ今回広島に行こと決めたですか訪問目的は何ですか
A3

大統領任期があと僅かとなるなか戦争本質をじっくりと考えるよい機会になると思いました目的は単に過去を振り返るではなくない 人々が戦争犠牲になったこと世界中で平和と対話を進めるためにできるかぎりことをすべきだといことわれわれは引き続き、『核兵器ない世界 を追い求めて努力すべきだといことを訴えることですそれは私が大統領に就任して以来ずっと取り組んできたことです

Q8
メッセージに謝罪は含まれますか
A8
含まれません戦争さなかに指導者はあらゆる決定を下すといことを忘れてはなりま せんそれについて疑問を呈し検証するは歴史家仕事です7年半同じ立場に身を置いた者としてどんな指導者でもとりわけ戦争ときに 極めて難しい判断を迫られることを知っていますですから私は今回すればわれわれは前に進むことができるかについて強調すると思います 時に先ほど述べたよ人々が戦争でひどく苦しんだとい事実を強調し平和と外交を重視するかたちで人間らしい対応と制度を進化させていく必要が あるといことを強調したいと思います

 わたしはオバマ氏の就任直後の核廃絶を唱えるプラハ演説以来、その意図に期待もし、また注目してきました。それによってノーベル平和賞を得ながらも残念ながら、彼は就任期間中核廃絶へ一歩すら前進できませんでした。広島訪問はその点で彼の「失望を秘めたもの」にならざるをえません。現役大統領が被爆地を初めて訪問するという以上の意味は持たないでしょう。「南ドイツ新聞」も主張するように、せめてヒバクシャの声を直接聴くことぐらいは期待したいのですが。

 さて本題ですが、インタヴューでオバマ氏は広島で予定されているメッセージに「謝罪は含まれるか」との問いに、「含まれない。それに疑問を呈し、検証するのは歴史家の仕事である」と答えました。政治家が言い逃れをする時にしばしば「専門家に任せましょう」というのは良くあることですが、これは核兵器使用国の大統領の重大な発言です。

 そこで、ここに歴史家のひとつの「疑問と検証」である今月10日のアピールがあります。わたしも賛同しました。
英文もあり、ホワイトハウスにも届けられています。ひょっとしたらオバマ氏もこれを読んでいるかもしれませんし、それを踏まえての発言となったのかもしれません。
そのアピールはこれです:→オバマ大統領と安倍首相への謝罪要求アピール
英文はこれです:


このアピールは「南ドイツ新聞」が指摘した「日米の歴史の嘘と神話」を指摘した上で謝罪を要求し、憲法9条の信念に基づき「謝罪なき訪問」を次のように厳しく批判しています:


日本の植民地主義、軍国主義、米国の核戦争を経て、憲法第九条は、国家の非武装、軍事力によらない平和という絶対平和主義の思想、 すなわち「いかなる理由によっても人間には人間を殺す権利はないし、誰も殺されてはならない」という信念が具現化されたものです。「原爆・焼夷弾無差別大 量殺戮」も「日本軍残虐行為」も、まさしくこの絶対平和主義という普遍原理にあからさまに乖背する非人道的で破壊的な暴力行為です。これらに対する「責任」も認めず「謝罪」もしないまま、核兵器を保有し続け軍事力を増大させながら、「核のない世界」や「安全平和なアジア」の構築だけを表面的、形式的にだ け唱えることは、単に欺瞞行為であるだけではなく、憲法第九条の精神=人類の普遍原理を空洞化する、「人道に対する反逆行為」です。

Article 9 was established as a result of experiences of and reflections upon colonialism, militarism and nuclear destruction. Its fundamental philosophy is that “no one has the right to kill another person whatever the reason may be, and no one should be killed for any reason.” Both the indiscriminate mass killing by the atomic bombing and the Japanese wartime atrocities were brutal and destructive violence, which clearly violated the universal principle of the spirit of Article 9. Indeed, it could be said that the perfunctory call for “a world without nuclear weapons” or “the establishment of a peaceful Asia” without acknowledging responsibility for the above atrocities is not simply a sham, but also a betrayal of humanity and contradictory to the spirit of Article 9.      
 
 さて このアピールの発起人の一人である歴史家で広島市立大学平和研究所教授の田中利幸氏が、先日18日に東京の外国人記者協会で記者会見を行っています。英語ですがその全部が以下で視聴できます。

これを見ると、南ドイツ新聞が論評で「歴史家たちはこの両方の神話を論破している」と書いた根拠がここにありそうです。ナイドハルト記者も東京特派員としてどうやらこの記者会見に出席していたようです。オバマ大統領の広島訪問について彼がどう報告するかも注目しています。



2016年5月22日日曜日

320:日米の嘘を突く南ドイツ新聞論評翻訳:オバマの広島での謝罪を恐れる安倍政権

 昨日、南ドイツ新聞の東京特派員が、オバマ大統領の広島訪問に関する、優れた論評を掲載しましたので翻訳をお伝えします。短い論評で原爆投下に関する日米の歴史認識の根本的矛盾を鋭く突いたものです。被爆体験を利用して加害歴史を隠蔽して被害者になりすます日本と、核兵器で早期の戦争終結を実現して犠牲を押さえたと戦争犯罪を糊塗するアメリカの共犯関係を指摘するものです。
わたしからの解説をひとつだけ付け加えるとすれば、この矛盾を自覚できないところに日米の構造的な歴史認識の決定的な欠陥があるのです。アジアの近隣諸国からの厳しい批判はそのため不可避となるでしょう。

また、この文中に「歴史家たちはこの両方の神話を論破している」とありますが、どうもわたしの報告は長くなり過ぎて読者の負担になりますので、これに関しては→次回にその一例を報告したいと思います。(23日に追加報告しましたのでご覧ください)
南ドイツ新聞5月20日4面の論評原文



なを、同紙の→インターネット版では新聞掲載分にはないリードがありますので、以下はそちらの全文の翻訳です。




         Japan 

  Angst vor Amerikas Entschuldigung

Seit Jahrzehnten nutzt Tokio die US-Atombomben auf Hiroshima und Nagasaki, um sich als Opfer im Zweiten Weltkrieg darzustellen. Würde Washington Bedauern äußern, müsste auch Japan seine vielen Kriegsverbrechen zugeben.
Von Christoph Neidhardt 

             日本
    アメリカの謝罪への恐怖

 東京は何十年にもわたり、第二次世界大戦での被害者としてふるまうためにヒロシマとナガサキへのアメリカの原爆投下を利用してきた。ワシントンが遺憾の意を表するようであれば、日本は自身の多くの戦争犯罪を認めざるをえなくなる。
 クリストフ・ナイドハルト
Gästen gegenüber ist man höflich, seltenen, lange erwarteten Gästen gegenüber allemal. Insofern war es keine Überraschung, dass die Bürgermeister von Hiroshima und Nagasaki dem amerikanischen Präsidenten Barack Obama versicherten, sie erwarteten keine Entschuldigung, wenn er im Juni die Gedenkstätte für die Opfer der ersten Atombombenabwürfe besucht - als erster amtierender US-Staatschef überhaupt. Im August 1945 hatte die amerikanische Luftwaffe mit einer einzigen Bombe in Hiroshima etwa 80 000 Menschen getötet, die meisten waren Zivilisten. Ebenso viele Menschen wurden verletzt und verstrahlt. Nach dem Kriegsvölkerrecht kann ein derartig großer Angriff auf die Zivilbevölkerung durchaus als Verbrechen gelten.
 
 人はお客に向かっては丁重であるし、珍しい長く待っていた客人に向かってはなおさらでそうである。その意味では広島と長崎の市長が、アメリカのバラク・オバマ大統領に対し、彼が現役のアメリカ大統領としては初めて6月(訳注:予定は5月27日)に原爆投下の追悼施設を訪問する際に、彼に謝罪を期待しないとの意思表明をしたのは驚くベきことではない。1945年8月にアメリカ空軍は一発の爆弾でその大半が市民である約8万人の人間を殺戮した。また同時に多くの人間が負傷し放射能で汚染された。戦時国際法によれば、民間人に対するこのような甚大な攻撃は、いずれにせよ戦争犯罪である。

Dennoch betonten sowohl die Bürgermeister der bombardierten Städte als auch Japans Außenminister Fumio Kishida, eine Entschuldigung Washingtons sei nicht nötig. Selbst die "Hibakusha", die Überlebenden der Atomangriffe, forderten keine Worte des Bedauerns von Obama, so berichteten Medien - obwohl zugleich eine Umfrage ergab, dass 56 Prozent sich genau das von dem Gast wünschten.
Denn in Wahrheit ist die Lage so: Nicht das japanische Volk oder die Hibakusha wollen keine Entschuldigung der USA, sondern die Regierung von Premierminister Shinzo Abe. Sie fürchtet ein amerikanisches Bedauern sogar. Das Grauen, für das die Namen Hiroshima und Nagasaki bis heute stehen, hat es Japan nämlich ermöglicht, sich in seinem Selbstverständnis am Ende des Krieges vom Aggressor, der sich in vielen Regionen Asiens unzähliger Verbrechen gegen die Menschlichkeit schuldig gemacht hatte, in ein Opfer amerikanischer Brutalität zu verwandeln. Als hätten die Atombomben Japans Schuld unter ihren Trümmern begraben.

 にもかかわらず、爆撃された両市の市長だけでなく、日本の岸田文雄外務大臣もワシントンの謝罪は必要ではないとしている。 それだけではなく核攻撃を生き延びた「ヒバクシャ」自身さえもオバマの遺憾の言葉を期待していないとの報道があるが、同時に彼らの56%が客人からまさにその言葉を期待しているとの世論調査がある。つまりこの情勢の真実とは:日本国民またはヒバクシャがアメリカの謝罪を望まないのではなく、安倍晋三首相の政府が望まないのである。それどころか、政府はアメリカの遺憾表明を恐れてさえいる。日本にとって可能であったのは、今日までヒロシマとナガサキの名で存続するむごたらしさが、侵略者の戦争の結果として自明である多くのアジアの地域で犯した無数の人道に対する罪を犯したことを、アメリカの残虐さの犠牲者へと変身してしまうことであった。あたかも日本の罪が原爆のガレキの下に埋没されたごとくのように。

Tokio versteckt seine Verbrechen hinter den Atombombenabwürfen

Japan ist ein Opfer ohne Täter - jedenfalls darf kein Täter genannt werden. "Ruhet in Frieden, wir werden den Fehler nicht wiederholen", lautet die Inschrift an der Gedenkstätte in Hiroshima. Wer dieses "Wir" ist, steht nirgends. Während der Besatzungszeit unterdrückten die USA alle Informationen über die Atombomben. Die Hibakusha wurden zum Schweigen gezwungen. Seither hat Tokio sich militärisch an Washington gebunden.
Die Amerikaner rechtfertigen sich, die Atombomben hätten den Zweiten Weltkrieg im Pazifik schneller beendet und damit sogar Leben gerettet; die Japaner glauben, ihre Regierung habe sich, wie es der Kaiser in seiner Kapitulationsrede sagte, wegen der "neuen Waffe" ergeben. Historiker haben beide Mythen widerlegt, doch Tokio und Washington haben ihre Militärallianz auf sie gebaut. Die Folge: Die USA müssen sich nicht entschuldigen, und Tokio musste sich als vermeintliches Opfer nie seinen Kriegsverbrechen stellen. Zeigte Obama in Hiroshima Reue, brächte er Abe damit in Zugzwang, sich bei den einst von Japan geschundenen Völkern Asiens zu entschuldigen. Und daran denkt der Regierungschef nicht.

 東京は自身の犯罪を原爆投下の背後に隠している

 日本は加害者のない犠牲者である、いずれにせよ加害者とされてはならない。「安らかに眠ってください、私たちは過ちを繰りしませぬから」と広島の記念施設の慰霊碑文にある。この「私たち」が誰であるのかはどこにも書かれていない。(訳注;良く知られているように、実際には「私たち」という主語は碑文にはない。主語のない文章は少なくとも欧米語には翻訳不可能である。主語・主体を不明にできる日本語の特徴を、筆者はこのようにして説明している*下の解説追記を参照)アメリカは占領期間中に原爆についてのすべての情報を弾圧した。ヒバクシャたちは沈黙を強いられた。それ以来東京は軍事的にワシントンに縛り付けられている。
アメリカ人は原爆で太平洋の戦争を早期に終わらせただけでなく、それどころか人命を救ったと正当化し、日本人は天皇が降伏の詔勅で述べたとおり「新兵器」のために彼らの政府が降伏したと信じている。歴史家たちはこの両方の神話を論破しているが、東京とワシントンは、彼らの軍事同盟をその上に築いてしまっている。結論として、アメリカは謝罪すべきではなく、東京は誤信による犠牲者として,自己の戦争犯罪に向き合ってはならないのである。もしオバマが広島で悔悟を示せば、それにより彼は安倍に対して、かつて日本によって酷く虐待されたアジアの諸国民に謝罪することを強いてしまうことになる。政府の首長はそんなことは考えてはいない。

In internationalen Gremien tritt Japan - als das einzige Opfer von Atombomben - für die nukleare Abrüstung ein. Aber seine Sicherheitspolitik stützt sich wesentlich auf den atomaren Schutzschild der USA. Die Regierung in Tokio nutzt die Hibakusha aus, um Japans Opferrolle zu belegen, vernachlässigt sie aber sonst. Viele Betroffene mussten sich Hilfe vor Gericht erstreiten, manchen wurde sie verweigert.
Mit der Ankündigung von Obamas Besuch in Hiroshima sind diese Widersprüche wieder aufgebrochen. Zahlreiche Hibakusha wünschen sich eine Entschuldigung von Obama, selbst wenn das Abe zwänge, sich ähnlich zu äußern. Dazu wird es nicht kommen. Doch Obama sollte den Überlebenden wenigstens zuhören. Sonst gerät sein Besuch zum bloßen Fototermin.