2013年12月31日火曜日

219:安倍内閣の国際喜劇「靖国引きこもり症」の病根にある吉田松陰崇拝イデオロギー(その2)。

 前回に続いて「その2」として、安倍内閣と日本社会の「靖国ひきこもり症」の病根には、吉田松陰崇拝というイデオロギーがあるという、わたしの説を述べましょう。
明治維新という、日本の近代史で最も大きな革命をもたらした、その精神的支柱とされたのが吉田松陰であり、彼にはまぎれもない侵略イデオロギーがあることは歴史的事実です。
 ところが、戦後日本の歴史教育では、この史実を一切無視しています。若い日本人には全く知られていないでしょう。 自国の近代史への見事な無知。これが「靖国引きこもり症」という病の原因です。明白に教育の失敗です。ドイツのメディアでもそれを指摘する報道が目立ってきています。

 昨日の共同通信による→安倍首相靖国参拝に関する世論調査は次のようです:

     靖国外交配慮を69% 首相参拝批判が上回る 

 共同通信社が28、29両日に実施した全国緊急電話世論調査によると、安倍晋三首相による靖国神社参拝に関連し て、外交関係に「配慮する必要がある」との回答が69・8%と、「配慮する必要はない」の25・3%を大きく上回った。中韓両国や米国など国際社会が厳し く反応していることに有権者が憂慮している状況が浮き彫りになった。

 首相参拝について「よかった」との回答は43・2%だったのに対し、「よくなかった」は47・1%と、批判的な意見が多かった。安倍内閣の支持率は55・2%と、横ばい。

2013/12/29 19:45   共同通信

 すなわち「よかった」と回答した43%を越えるひとびとは、明らかにこの病氣の患者、ないしは抵抗力のない人といえます。自国の歴史に対する無知がもたらしている惨状を現している数字です。
  以下は8年前の敗戦60年に際して、「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」の『季刊中帰連』33号・2005年夏号に掲載されたものを、そのまま転載します。写真は掲載分のものにいくつか付け加えてあります。
ちなみに、前回でもふれました王毅駐日大使(現中国外交部長)とわたしが会談したのは、2004年12月のことです。当時の小泉首相の靖国参拝が、深刻な話題であったことも書いています。当時の小泉首相の確信的靖国参拝で、王大使は非常に苦労しています。
 わたしには、当時この聡明な外交官が、おそらく将来の中国外交部長になることは予想できました。また、今回の安倍首相の靖国参拝で不断は非常に感情を抑える外交官である彼が、記者会見で激怒したのもよく理解できます。
 これによって、安倍晋三首相の訪中はもちろん中国との首脳会談は絶対に無理です。わたしの予言は、残念ながら当たります。安倍内閣の間は日中首脳会談は不可能です。

 安倍晋三内閣が続く限り、日本ボイコットが中国と韓国から、アジア諸国、さらには世界中に拡大せざるを得ないからです。アメリカもその認識を深めるでしょう。 すなわち、靖国神社参拝に引きこもって自己満足するような社会は、世界から馬鹿にされ、見放されるだけであることを、2014年の日本人は、身を以て認識さされるということです。

 その原因がどの辺りにあるかを知っていただきたく、8年前の論考を以下、ゆっくりご拝読下さい。

 また、安倍内閣を支持、宣伝する読売や産経のメディアは、以下の論証に一切反論できないでしょう。できないから徹底的に無視します。怖いからです。読者の皆さんがどんどん宣伝してくだされば幸いです。
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ベルリン歳時記18   
                             梶村太一郎
       松下村塾と撫順の教育

 人類史上最悪の被害をもたらした第二次世界大戦が終結し、人類がファシズムから解放されて六〇年が経った。だが、戦後に生まれた世代をふくめて、戦争の破壊がもたらした精神的外傷(トラウマ)は、被害者、加害者を問わず、その孫の世代まで癒されることなく残ったままだ。
近代文明の破壊であった傷は大きく、おそらくは、さらに五〇年を経ても完全に癒されることはないのではなかろうか。これから比較的平和な時代が一〇〇年続いたとしても、この傷跡は残ったままであろう。体験したことのないほどの破壊であったために、私たちは治癒への物差しを持っていないのである。

 しかも、悪いことは戦後の日本社会ではこの傷を、あたかも無いかのごとく抑圧し潜在化することができたために、傷の痛みに無自覚になってしまっていることだ。一般的にも病人が、自分は病気ではないと本気で思い込むことは危険だ。ましてやそれが、かつて犯罪をもたらした病であるときは危険なことになる。日本は六〇年前まで、強烈な「侵略病」患者の国であった。その病歴の自覚が失われてしまっていることが、ここに来て世界中に知れ渡ってしまった。

 靖国神社に合祀されている戦犯に関しての言葉「罪を憎んで人を憎まず」。この一言がかつての加害国の総理大臣の口から国会の場で出されたことによって、彼は自国が犯した罪を憎むどころか、それに全く無自覚であることを告白した。強盗犯や強姦犯が「私のしたことは悪いことだ。だが私は悪人ではない」と公言したら、被害者は何と受け止めるであろうか。小泉純一郎は一国の首相としてそう言ったのである。これは常習犯、ないしは確信犯の告白の言葉だ。「悪党だ」と自分で述べたに等しい。戦後六〇年の悲惨な日本の公式の姿がこれだ。語るに落ちるとはこのことで、被害諸国は、「これは一体何だ?」と唖然として、怒ることも忘れるほどあきれ果てたに違いない。小泉純一郎首相は、これで近隣諸国から、最終的にうんざりされ、一国の首相としてまともに相手にはされなくて当然である。

 昨年末、王毅大使にお会いしたとき、私は「小泉首相は確信犯です。来年は、おそらく八月十五日に靖国神社参拝をするでしょう」と私見を述べた。その時、大使の真剣な眼差しがさらに真剣になった。
 その後、今年になり、韓国と中国で領土、教科書、それに靖国参拝の問題で大規模な市民の抗議行動が起こり、韓国、中国の政府も立場を明確にした声明などを日本に向けて示し続けた(本誌前号の「ベルリン歳時記」に詳しい)。にもかかわらず、この「包囲された夜郎国」の首相の姿勢は変わらないどころか、ますます頑になり、ついに次のような報道まで出た。

 飯島勲首相秘書官は十一日夜、長野県辰野町で講演し、昨年十一月にチリで行われた中国の胡錦濤国家主席との首脳会談について「『小泉首相は時期は別として来年も靖国神社を参拝する。それでも不都合がなければ会談を受ける』と伝えた上で会った」と述べた。飯島氏はさらに「国の指導者たる小泉(首相)が不戦の誓いで靖国神社に行くのは何らおかしくない。(今年も)多分必ず参拝すると思う」と語った。(『毎日新聞』六月十一日)
この秘書官の言葉が事実であるならば、あの時、王毅大使はすでにチリでの首脳会談の舞台裏をご存知であったのかもしれない。もはや靖国参拝は期日の問題でしかない。残念ながら私の「八月十五日説」が当たりそうだ。

 ここで、話しが飛ぶようだが、私は大使とお会いする数日前に山口県萩市を訪ねている。理由は、明治維新とその後の日本の帝国主義の精神的核となった吉田松陰の一次資料を現場で見るためだ。十二月は観光客も少なく、私にとっては「春」のような天気なので、落ち着いた旅となった。

 一八五三年、江戸に遊学中の松陰は佐久間象山の門下として洋式砲術などを研究していた。六月に浦賀にペリーの黒船が現れるや直ちに現地に行き視察をしている。「この子霊骨あり」と若い門下生の才能を見いだしていた象山は、その前年に漂流民中浜万次郎がアメリカから帰って来たことをヒントに、松陰に外国船での密航を勧めた。オランダ語を修めていた彼には欧米の文明の発達が予見できたからである。「ヨーロッパ・メリケンの風教を聞知し、五大州を周遊せんとする」ための密航だ。

 翌五四年の嘉永七年、ペリーが下田に再来するや、松陰は三月二七日の夜中に密かに軍艦に乗り込むが、ペリーに「幕府の承諾がないと受け入れられぬ」と拒絶されてしまう。ここに「留学計画」は空しく挫折し、国禁を犯した罪で下獄することになった。松陰二五歳であった。江戸幕府に開国を迫る外交交渉のまっただ中にいたペリーは、この真夜中の訪問者を「困った奴だ」と思ったに違いない。だが、このとき幕府の下した刑罰が、死罪を覚悟していた松陰の予想を外れて自藩幽閉と軽かったのは、ペリーの幕府への働きかけのためだといわれている。
 それにしても、その後の、松陰の絶大な影響力を考えると、もしもこの密航が成功し、見聞を世界に広げておれば、日本の近代史は全く別のものになっていたに違いない。それだけではない、ペリーも驚くだろうが、後の真珠湾攻撃も無く、日本のアジアでの侵略も回避できたかもしれないのである。溢れる才能を幽閉してしまったことは大きな損失であった。

 同年晩秋、松陰は密航失敗の件について、その動機と思想的根拠を、萩の獄中で『幽囚録』として漢文で書き下し、連座して故郷の松代で蟄居中の師の象山に送っている。先鋭な若い才気が挫折し、消しがたい精神の傷の痛みが伝わる文章である。私はその原文を、松下村塾と松陰神社そばの松陰遺墨展示館で見た。そのなかに次のような部分がある。現代文訳での大意はこうだ。
「いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャツカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。また、朝鮮をうながして昔同様に貢納させ、北は満州の地を裂き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである」
 恐るべきことは、それから約九十年後の太平洋戦争にいたるまで、日本はこの通りの膨張を遂げて破滅したという事実だ。奪い取らなかったのはカムチャッカのみである。まさにここに近代日本の「侵略病」の萌芽があるのだ。才気ある青年の挫折の恨みが歴史を胎動させたといえる。
松蔭神社社殿2004年12月

社殿から鳥居越しに見た松下村塾
彼は以降、獄中と実家での幽閉生活を続け、安政の大獄で処刑されてしまう。齢わずかに三十であった。

 その後、彼は神となって松陰神社に祭られている。入り口の巨大な石碑には「明治維新胎動之地」とある。神殿から振り返ると、鳥居を隔てた真正面に、彼が長い間過ごした実家の幽閉室が見え、その室内にも注連縄が架けられている。ここはまさに「日本帝国主義胎動之地」である。松陰が処刑されたのち、ここ松下村塾の彼の門弟たちは、明治維新で権力を掌握し、着実に師の意思を実現していった。
神社前から循環バスに乗って、しばらく行くと出世頭のひとりである伊藤博文の生家の隣に東京の大井から移築された別荘がある。初代内閣総理大臣のものだけに立派な明治の木造建築だ。
日本軍軍服で韓国皇太子と
和服の韓国皇太子と















 
   明るい座敷で休息がてら卓上のアルバムを繰ると、伊藤の興味ある写真がある。韓国の礼服を着たものや、韓国皇太子と軍服姿で撮ったものまである。
 初代の韓国統監として「朝鮮をうながして昔同様に貢納させる」ために彼なりに苦心した証拠写真だ。これらは韓国・朝鮮民族にとっては,見たくもない屈辱の記録に違いない。だが、この民族に消しがたい「恨・ハン」をもたらした侵略の証拠として転載しておこう。伊藤は引き続き「北は満州の地を裂き取る」準備に出かけて、ハルピン駅頭で安重根の銃弾に倒された。

 安重根は韓国・朝鮮史の英雄であるが、松陰がこれを知ればどのように言うであろうかとふと考えた。安重根を愛国の義人として讃えたかもしれない。さらに、門弟の伊藤の行為を見て、大いに恥じたかもしれない。だが、これははかない夢物語でしかない。
 なぜ私がそのようなことを夢想したかは、次のような事実があるからだ。密かに届けられた『幽囚録』を読んだ佐久間象山は、原本の文末に批評を朱筆している。

吉田松蔭「幽囚録」の文末にある佐久間象山の朱筆批評
  わずか二行の漢文を読み下すと「吾党の事はこれを天下後世の公論に付して可なり。何ぞもって意にとめおくに足らんや。今この録をみるに、まま忿恨(ふんこん)の言あるを逸れず。少壮鋭烈の気の乗ずる所に非(あらざ)るを得んや。これ省みざるべからざるなり」。
 現代語に直せば「密航の一件の評価については、判断を後の世の議論にまかしておけばよいことだ。なにも重く気に病むほどのことではない。この記録を読むと忿懣遺恨の言葉も見られる。若者が鋭く烈しい感情に流されているようだ。これは反省すべきことだ」ということだ。

 井手孫六氏は「冷静で正確な批判と言うべきだった。だが、松下村塾の門弟たちの耳には伝えられることがなかったものであろう」と書いている(注)。おそらく松陰自身にも批判は届いていなかったのであろう。

 この松陰の幽囚の「忿恨」が、後に天皇制原理主義ともいえる国家の内外へのテロリズムをともなう侵略思想となり、獄中の誇大妄想を実際の歴史として実現してしまった。その結果、松陰の「忿恨」が幾世代にもおよぶ隣国の「忿恨」を生み続けたのである。つまり、幕末の一青年の蹉跌のトラウマが恐るべき暴力行使となり、隣人たちのトラウマを生じたのだ。そして問題は小泉首相も、また彼の後継候補のひとり安倍晋三らも、間違いなく松陰神社の信者であることだ。

 アジアでは、戦後六〇年を経てもこのトラウマは癒されていない。それどころか、日本の社会と指導者たちの、そのことに無自覚な言動が引き続き、隣人たちの忿恨を、これまでになく噴出させていまっている。この現実に直面して多くの市民も良心的なメディアも戸惑っている。だが日本の近代が近隣諸国に与えた傷が、かくも深いことをまずは認識しない限りは出口は探れない。

 撫順の管理所での教育こそが、この中国と日本のトラウマを癒す力を持っていたことを私たちは知っている。まさにここでの教育こそが「罪を憎んで人を憎まず」の思想を、文字どおり実践し成功させた。小泉首相が学ばねばならないのもこの事実だ。撫順の教育は、ちょうど一〇〇年を経て図らずも、松下村塾の教育がもたらした負の遺産に対峙し、見事にそれを克服している。ここにこそ東アジアの古い文明の未来を育てる深い根がある。
 来年は、大半の戦犯たちが帰国して活動を始めた五〇周年記念の年だ。受け継ぐ会が、このような中帰連の精神を「しっかりと受け継いでいる」ことを、旗幟鮮明に示す時期にせねばなるまい。

(注)この論は、井手孫六「松陰『幽囚録』から」(信濃毎日新聞夕刊、二〇〇五年五月十二日、十九日)に啓発されたところが多い。信州の井手氏に感謝いたします。

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以上転載終わり。

かつて、作家の小田実氏は、まだ壁のあったベルリンでわたしとビールを飲みながら「イデオロギーは人を殺すよ」とよくつぶやいたものです。160年前の古い吉田松陰の侵略イデオロギーをいまだに崇拝する安倍氏を最高権力者にした日本でも、間もなくこれによる「人殺し」が公然と行われることになるでしょう。

 かつての15年に渡るアジア太平洋戦争での、日本人の軍人軍属、市民の犠牲者は310万とされています。侵略されたアジア諸国の犠牲者は、少なくとも2000万で、おそらくはそれを上回ると推計されています。これが上述した松蔭崇拝イデオロギーがもたらした史実なのです。この重さを教えるのが教育です。それに失敗したのです。
 
 結果として、これほどの人類史上最大の犠牲を強いた責任者たちの霊を参拝することで、心の平安を得るとするのは、まことに尋常ではありません。首相がそれをする国が「狂っている、病んでいる」と世界中からみなされるのは当然です。

 NHKは26日の靖国参拝の後、首相を擁護して以下のように伝えています:

安倍総理大臣は今月26日靖国神社参拝あと記者団に対し、「日本ために尊い命を犠牲にされたご英霊に対して尊崇念を表し不戦誓いを新た にしたと述べたえで、「中国や韓国人々気持ちを傷つけるとい考えは毛頭ないと強調し理解を得るため努力を重ねていく考えを示しています

この安倍発言は、他国を侵略した犯罪者を崇拝しておいて、犠牲者の子孫を侮辱するつもりは毛頭ないという、加害者の子孫からの見事なまでの「第二の精神的犯罪」です。その認識がないメディアしかできない報道なのです。

 続いて、次回は日独の自国への歴史認識の落差が、現在の両国の政治家に、どのような対極的な行動をとらせているかをアクチャルな事例で報告し、その上でなぜ「靖国引きこもり症」となるのかも考察したいとおもいます。
 このシリーズはおそらく5から6回続く長編になりそうです。
読者からの忌憚のないご感想も期待致します。

ここまで書いて さて寝ようとしたら、以下のような2013年大晦日の報道が、一斉にされています。
一番詳しい→時事通信の第一報をお借りします。

靖国参拝で外交攻勢=各国外相と次々電話会談中国

 【北京時事】新華社電によると、中国の王毅外相は30日夜、ロシアのラブロフ外相と電話会談し、安倍晋三首相の靖国神社参拝について話し合った。中国は安倍首相への非難を強めている。国際世論にも積極的に働き掛け、靖国参拝批判の包囲網を築く外交攻勢を強化する構えだ。
 電話会談で王外相は「中ロは世界反ファシスト戦争の勝利国、国連安保理の常任理事国として、共同して国際正義と戦後の国際秩序を守るべきだ」と中国の考えを伝えた。ラブロフ外相も「ロシアの立場は中国と完全に一致する」と応じた。
 さらに、王外相は「(安倍首相の靖国参拝は)平和を愛好するすべての国と国民の強い警戒を引き起こす」と訴えた。ラブロフ氏も参拝に反対する考えを示した上で「日本が誤った歴史観を正し、地域の緊張を激化させる行動を取らないよう促す」と答えたという。
 王外相は30日、ドイツのシュタインマイヤー外相や、ベトナムのファム・ビン・ミン外相とも電話会談した。新華社電は「日本問題」についても意見交換したと伝えており、靖国参拝に反対する中国の立場に理解を求めた可能性がある。(2013/12/31-06:14


 安倍晋三首相は靖国引きこもり男として、いよいよ外交で自ら雪隠詰めになりそうですが、これこそ自己責任です。2014年がこのような内閣総理大臣を選んだ日本社会にとって非常に苦い年になることは、間違いありません。
 靖国神社は、ついに日本の歴史認識の雪隠となったようです。「九段の森では、こころして用を足せ」というところでしょう。日本にとっては悲劇ですが、国際的には喜劇となるでしょう。外交とは悲喜劇の綾なす舞台なのです。


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