2011年5月22日日曜日

5:日独の双子の「核の男爵たち」の破綻

 昨日、5月20日の夕食時にニュースを見ていたら、バイエルン州のゼーホッファー首相が、この日から始 まったキリスト教社会同盟(CSU)の代表者会議で、翌日議論される予定の脱原発方針について公共テレビのぶ ら下がり取材に答えて、のうのうと「われわれは原発から撤退した」と完了形で答えるのを聴いて、おもわず吹 き出してしまいました。
悪いことにちょうど赤ワインを口に含んでいたので、ワイシャツが赤染めになり、連れ 合いがあわてて塩をつけて水洗いをするはめに。赤ワインの汚れは直ぐに洗わないと簡単にはとれなくなるのです。

ちょうど日本の自民党のように彼の党は、戦後ドイツの原子力政策推進の急先鋒で、「バイエルンの王様」とい われたシュトラウス元党首(1915-88)は原子力大臣として核技術を追究し、秘かに「原子力利用を通じて 将来に核武装のオプションを残す狙いを持っていた『核の男爵』のひとり」とされています。これについては、 春名幹男氏が『世界』の最新6月号への寄稿「原爆から原発へ」で詳しく述べられています。 同稿に引用されている文献『核の男爵たち』では、もうひとり、日本の「核の男爵」が中曽根康弘氏であると指摘されているとのことです。全くその通りで、この ふたりが、保守政権党の党首、(州)首相、あるいは閣僚として推進した原子力政策は、日独の双子の兄弟のように そっくりなのです。

シュトラウス氏は原発を建設しただけでなく、核サイクルの要のである核燃料再処理施設をバイエルン州のチェコ国境に近いヴァッカースドルフに誘致し、広大な森林を伐採し、金力と警察力で建設を強引に進めました。ちょうど1986年のチェルノブイリの事故の前から始まった建設を巡る反対運動は、ドイツの反原発運動の中でも最も激しいものとなり、市民運動、警備の双方に死者が出たほどです。
核燃料再処理施設建設現場のフェンスに近づく市民を弾圧する警察官、1988年
建設現場付近ではデモも禁止され、市民は「日曜散歩」と称して、日曜日に礼拝の後、三々五々建設現場のまわりを毎日曜日に散歩する戦術を続けたのですが、施設予定地に近づいただけでも上の写真のように暴力で排除されました。素手の市民に襲いかかる機動隊の様子がよくわかります。

1988年ですが、わたしも警備の警察に拘束された経験があります。日独の市民運動の「日独平和フォーラム」の仲間と一緒に「核と戦争のない世界をつろう」という横断幕をもって「散歩」を試みたことが理由です。施設のまわりの森の中から突然現れた機動隊に包囲されて施設内に連れ込まれました。ドイツ人市民は女性が中心になり横断幕の上に座り込んで頑固に抵抗しました。結局、地元の政治家が仲介してくれたおかげでわたしは釈放されましたが、横断幕はデモになるとの理由で没収するすることが条件でした。
このことでも判るように、まさに当時の雰囲気は「SS親衛隊帝国」に似た「原子力帝国」(ロバート・ユング)そのものでした。翌日の地元紙の新聞種になりました。これらの写真は翌年市民運動が記録として作成したカレンダーに掲載されたものです。
この横断幕をもって散歩したところたちまち背後の森から機動隊が現れた。1988年5月

 ところが、シュトラウス氏は88年に心臓マヒで突然亡くなり、また再処理施設も市民の抵抗により未完のまま建設が断念されました。ドイツが核サイクルを断念したのは、チェルノブイリの事故の衝撃もありますが(事実、事故でここの森もかなり核汚染され、いまだに動植物のセシウムの値は高いのです)、しかし粘り強い市民の非暴力直接抵抗運動だったのです。
とはいえ、同党の氏の後継者たちも、同州では政権交代がなかったこともあり、 原発推進政策を最も積極的に続け、同州には現在も5基が稼働中です。それがフクシマを契機に、ゼーホッファー氏以下党首脳が手のひらをかえしたように突然、脱原発に政策転換しただけでなく、まるで緑の党に「転向」したごとく、急進的な再生可能エネルギー政策を追究すると言い出したのです。一番たまげたのは同党の原発推進派の党員たちです。彼らはあっけにとられてしまっていると報道されています。まだ同党の正式な政策として決定される前に、ゼーホッファー氏があたかも既成事実のように「完了形」で述べたので、おかしくて吹き出してしまったのです。

今日の土曜日、風光明媚な修道院で行われた代表者会議では、さすがに議論百出し 、会議は7時間も続けられましたが、結果は棄権はあったが反対はなく、「2022年までに同州の原発は廃止する」と決議されたとのことです。これに関して連邦政府で連立する姉妹党のキリスト教民主同盟の党首であるメルケル首相も賛意を表したため、メディアは一斉に「10年後をめどに原発全廃の見通し」と報道されています。この情勢に最もたまげているのは、おそらく亡き「ドイツの核の男爵」シュトラウス氏であろうと思われます。

では、もう1人の双子の兄弟「日本の核の男爵」中曽根康弘氏はどうでしょう。彼はシュトラウス氏が再処理施設建設を決定したころ首相となり「日本を不沈空母とする」と発言しています。この彼の構想にある「航空母艦」は実は核サイクルで推進する「原子力空母」であることは間違いありません。本当は「原子力不沈空母にする」と述べたかったのであると、わたしは当時から考えていました。また「日本はこのままでは、完成を見ずに沖縄戦に投入され、紀伊半島沖で轟沈された空母『信濃』の運命を繰り返す。今度は放射能汚染で被害は日本に留まらないだろう」と予想していました。
氏は最近の朝日新聞とのインタヴューで、フクシマの事故につき「残念至極」と述べています。それはそうでしょう、彼の構想はほぼ実現するかと思いきや、フクシマで見事に破綻したからです。彼は元海軍将校として、今度は元首相として2度目の大敗北を喫したわけです。しかしこの世界史最悪の原発事故のA級戦犯に後悔や反省を期待するのは無駄なことです。また彼の党である自民党にもそれは無理であるようです。期待できるのは河野太郎議員らごく少数の党員だけではないでしょうか。
中曽根氏が本当に愛国者であるならば、「残念至極」に留まらず、率直な反省と謝罪の発言があってしかるべきでした。ひと言でいえば極めて無責任な人物です。

ところで、中曽根氏に関して、わたしは思いがけない人から人物評を聴いたことがあります。
2006年の11月のことですが、ある新聞社のワイツゼッカー元大統領とインタヴューに同席したことがあります。インタヴューが終わって、少し雑談をしました。そのとき大統領はわたしに向って「最近、日本と韓国を訪ねたのですが、中曽根氏が変わっていないのには驚きました。彼は化石保守主義者です(Er ist erzkonservative)」と実に苦い顔でおっしゃったのです。ドイツ語のこの表現は「どうにもならないウルトラ保守」といった意味があります。
 氏が大統領時代と期を同じくして首相であった中曽根氏には、当時から何度も会う機会があったのでしょう。それに1985年5月の敗戦40周年記念日の連邦議会での大統領の「荒野の40年」演説と、8月の中曽根内閣の靖国神社公式参拝が、同じ敗戦国の指導者ふたりの際立った対照的な歴史認識の現れとして世界中に知れ渡りました。その記憶が大統領には強く残っているからこその日本人への警告の言葉であると、わたしは理解しました。
大統領のこの人物評は間違っていないことが、中曽根氏のフクシマに関する言動でも証明されています。

ワイツゼッカー元大統領、ベルリンの事務室で。2006年11月
大統領は中曽根氏同様に高齢でも今もいたってお元気です。機会があればメルケル首相の脱原発方針転換についての考えを訊ねてみたいものです。いずれはこれに関して報道もあるでしょう。わたしは大統領はおそらく、賛意を、それもかなり強いそれをもたれているのではないかと推定しています。
彼の長兄はナチ時代の核開発に直接関与した高名な物理学者でしたし、そのことからも核問題は大きな関心事でもあるからです。 それに大統領の事務室の本棚の上では、エマニエル・カントの像が耳をすまして話を聴いていました。核問題の克服にはカントの哲学が増々重要であることをこの保守政治家はよく認識されているに違いないからです。

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