2011年5月22日日曜日

5:日独の双子の「核の男爵たち」の破綻

 昨日、5月20日の夕食時にニュースを見ていたら、バイエルン州のゼーホッファー首相が、この日から始 まったキリスト教社会同盟(CSU)の代表者会議で、翌日議論される予定の脱原発方針について公共テレビのぶ ら下がり取材に答えて、のうのうと「われわれは原発から撤退した」と完了形で答えるのを聴いて、おもわず吹 き出してしまいました。
悪いことにちょうど赤ワインを口に含んでいたので、ワイシャツが赤染めになり、連れ 合いがあわてて塩をつけて水洗いをするはめに。赤ワインの汚れは直ぐに洗わないと簡単にはとれなくなるのです。

ちょうど日本の自民党のように彼の党は、戦後ドイツの原子力政策推進の急先鋒で、「バイエルンの王様」とい われたシュトラウス元党首(1915-88)は原子力大臣として核技術を追究し、秘かに「原子力利用を通じて 将来に核武装のオプションを残す狙いを持っていた『核の男爵』のひとり」とされています。これについては、 春名幹男氏が『世界』の最新6月号への寄稿「原爆から原発へ」で詳しく述べられています。 同稿に引用されている文献『核の男爵たち』では、もうひとり、日本の「核の男爵」が中曽根康弘氏であると指摘されているとのことです。全くその通りで、この ふたりが、保守政権党の党首、(州)首相、あるいは閣僚として推進した原子力政策は、日独の双子の兄弟のように そっくりなのです。

シュトラウス氏は原発を建設しただけでなく、核サイクルの要のである核燃料再処理施設をバイエルン州のチェコ国境に近いヴァッカースドルフに誘致し、広大な森林を伐採し、金力と警察力で建設を強引に進めました。ちょうど1986年のチェルノブイリの事故の前から始まった建設を巡る反対運動は、ドイツの反原発運動の中でも最も激しいものとなり、市民運動、警備の双方に死者が出たほどです。
核燃料再処理施設建設現場のフェンスに近づく市民を弾圧する警察官、1988年
建設現場付近ではデモも禁止され、市民は「日曜散歩」と称して、日曜日に礼拝の後、三々五々建設現場のまわりを毎日曜日に散歩する戦術を続けたのですが、施設予定地に近づいただけでも上の写真のように暴力で排除されました。素手の市民に襲いかかる機動隊の様子がよくわかります。

1988年ですが、わたしも警備の警察に拘束された経験があります。日独の市民運動の「日独平和フォーラム」の仲間と一緒に「核と戦争のない世界をつろう」という横断幕をもって「散歩」を試みたことが理由です。施設のまわりの森の中から突然現れた機動隊に包囲されて施設内に連れ込まれました。ドイツ人市民は女性が中心になり横断幕の上に座り込んで頑固に抵抗しました。結局、地元の政治家が仲介してくれたおかげでわたしは釈放されましたが、横断幕はデモになるとの理由で没収するすることが条件でした。
このことでも判るように、まさに当時の雰囲気は「SS親衛隊帝国」に似た「原子力帝国」(ロバート・ユング)そのものでした。翌日の地元紙の新聞種になりました。これらの写真は翌年市民運動が記録として作成したカレンダーに掲載されたものです。
この横断幕をもって散歩したところたちまち背後の森から機動隊が現れた。1988年5月

 ところが、シュトラウス氏は88年に心臓マヒで突然亡くなり、また再処理施設も市民の抵抗により未完のまま建設が断念されました。ドイツが核サイクルを断念したのは、チェルノブイリの事故の衝撃もありますが(事実、事故でここの森もかなり核汚染され、いまだに動植物のセシウムの値は高いのです)、しかし粘り強い市民の非暴力直接抵抗運動だったのです。
とはいえ、同党の氏の後継者たちも、同州では政権交代がなかったこともあり、 原発推進政策を最も積極的に続け、同州には現在も5基が稼働中です。それがフクシマを契機に、ゼーホッファー氏以下党首脳が手のひらをかえしたように突然、脱原発に政策転換しただけでなく、まるで緑の党に「転向」したごとく、急進的な再生可能エネルギー政策を追究すると言い出したのです。一番たまげたのは同党の原発推進派の党員たちです。彼らはあっけにとられてしまっていると報道されています。まだ同党の正式な政策として決定される前に、ゼーホッファー氏があたかも既成事実のように「完了形」で述べたので、おかしくて吹き出してしまったのです。

今日の土曜日、風光明媚な修道院で行われた代表者会議では、さすがに議論百出し 、会議は7時間も続けられましたが、結果は棄権はあったが反対はなく、「2022年までに同州の原発は廃止する」と決議されたとのことです。これに関して連邦政府で連立する姉妹党のキリスト教民主同盟の党首であるメルケル首相も賛意を表したため、メディアは一斉に「10年後をめどに原発全廃の見通し」と報道されています。この情勢に最もたまげているのは、おそらく亡き「ドイツの核の男爵」シュトラウス氏であろうと思われます。

では、もう1人の双子の兄弟「日本の核の男爵」中曽根康弘氏はどうでしょう。彼はシュトラウス氏が再処理施設建設を決定したころ首相となり「日本を不沈空母とする」と発言しています。この彼の構想にある「航空母艦」は実は核サイクルで推進する「原子力空母」であることは間違いありません。本当は「原子力不沈空母にする」と述べたかったのであると、わたしは当時から考えていました。また「日本はこのままでは、完成を見ずに沖縄戦に投入され、紀伊半島沖で轟沈された空母『信濃』の運命を繰り返す。今度は放射能汚染で被害は日本に留まらないだろう」と予想していました。
氏は最近の朝日新聞とのインタヴューで、フクシマの事故につき「残念至極」と述べています。それはそうでしょう、彼の構想はほぼ実現するかと思いきや、フクシマで見事に破綻したからです。彼は元海軍将校として、今度は元首相として2度目の大敗北を喫したわけです。しかしこの世界史最悪の原発事故のA級戦犯に後悔や反省を期待するのは無駄なことです。また彼の党である自民党にもそれは無理であるようです。期待できるのは河野太郎議員らごく少数の党員だけではないでしょうか。
中曽根氏が本当に愛国者であるならば、「残念至極」に留まらず、率直な反省と謝罪の発言があってしかるべきでした。ひと言でいえば極めて無責任な人物です。

ところで、中曽根氏に関して、わたしは思いがけない人から人物評を聴いたことがあります。
2006年の11月のことですが、ある新聞社のワイツゼッカー元大統領とインタヴューに同席したことがあります。インタヴューが終わって、少し雑談をしました。そのとき大統領はわたしに向って「最近、日本と韓国を訪ねたのですが、中曽根氏が変わっていないのには驚きました。彼は化石保守主義者です(Er ist erzkonservative)」と実に苦い顔でおっしゃったのです。ドイツ語のこの表現は「どうにもならないウルトラ保守」といった意味があります。
 氏が大統領時代と期を同じくして首相であった中曽根氏には、当時から何度も会う機会があったのでしょう。それに1985年5月の敗戦40周年記念日の連邦議会での大統領の「荒野の40年」演説と、8月の中曽根内閣の靖国神社公式参拝が、同じ敗戦国の指導者ふたりの際立った対照的な歴史認識の現れとして世界中に知れ渡りました。その記憶が大統領には強く残っているからこその日本人への警告の言葉であると、わたしは理解しました。
大統領のこの人物評は間違っていないことが、中曽根氏のフクシマに関する言動でも証明されています。

ワイツゼッカー元大統領、ベルリンの事務室で。2006年11月
大統領は中曽根氏同様に高齢でも今もいたってお元気です。機会があればメルケル首相の脱原発方針転換についての考えを訊ねてみたいものです。いずれはこれに関して報道もあるでしょう。わたしは大統領はおそらく、賛意を、それもかなり強いそれをもたれているのではないかと推定しています。
彼の長兄はナチ時代の核開発に直接関与した高名な物理学者でしたし、そのことからも核問題は大きな関心事でもあるからです。 それに大統領の事務室の本棚の上では、エマニエル・カントの像が耳をすまして話を聴いていました。核問題の克服にはカントの哲学が増々重要であることをこの保守政治家はよく認識されているに違いないからです。

2011年5月12日木曜日

4:メルケル首相の君子豹変の決断

昨日、5月10日のドイツ外国人特派員協会(1906年ベルリンで結成。現在60カ国約400人の会員)とメルケル首相の官邸での記者会見について、まず報告しましょう。


 この日の首相は、最近ではめずらしくご機嫌が良い様子でした。前回彼女の苦い表情ばかりだったので、今回は笑顔を紹介しましょう。
この日は快晴で、最高気温も25度ほど。爽快な初夏の「ドイツの五月晴れ」です。その空の色に合わせたような上着で、彼女の碧眼と三位一体となるおしゃれが決まっていることを、やはり意識していらっしゃるのかもしれません。
メルケル氏は、ポーカーフェイスが普通の政治家の中でも、めずらしく気分が顔に表れるのです。彼女の笑顔は少女のようで、実に可愛らしいのです。

それはともかく、なにしろ世界中からの記者の、ギリシャの経済危機から、中東の民主革命、それにもちろんフクシマと原発撤退までの、矢継ぎ早に打ち出される広範な質問のボールを、テニス選手のように打ち返すのも、この日は余裕たっぷりでした。
ですから、自分の政治姿勢についての説明も織り交ぜての回答が見られました。
曰く「私は、何事も情勢を注意深く観察し、十分に分析する人間です」。これは自然科学者(物理学博士)として身についているのかもしれません。
また、曰く「ようやくこの間、次第に知られてきていますが、私はじっと待って、直前になって決断をする人間です。決断は必ずします」。
であれば、3月14日の脱原発への方向転換の決断も、あらかじめシナリオとして十分考慮していたことになります。できたら、その経過を質問したかったのですが、質問者が多すぎ、わずか一時間の会見では残念ながら無理でした。

とはいえ、日本の原発事故については明確に述べています。要旨は「フクシマの衝撃的な大規模な事故によって、私は『(極小の)残余危険性/Restrisiko』について、別の視点を持ちました。ドイツにはあれほどの地震も津波もないにしろ、他の原因により同様の不測の連鎖事故が起こる危険があります」。
さらに「緑の党が脱原発の主張をかかげて産まれたように、ドイツ社会では長年にわたって原発の是非を巡る争いが続いてきました。私はできるだけ早い再生可能エネルギーへの乗り換えで、この大きな社会を二分してきた争いに終止符を打ちたいのです」。

つまり、緑の党の脱原発の党是をほぼ丸呑みにする決断をしたのです。これは権力を掌握する政治家の、見事な君子豹変の弁といえます。しかも前日の議会の野党党首らとの会談で、全野党が「最終的な早期原発撤退の関連法案には原則として賛成する」との意思表示を得ていますので、この日はご機嫌ななめならず、自信たっぷりであったというのが、わたしが得た印象です。

会見を終えたわたしは、自転車で官邸から散歩がてら街の中心にある広大なティアガルテンを抜けて帰宅しました。この時節は森の新緑が目映く、ちょうど下の写真のように色とりどりのツツジやシャクナゲが妍を競い、四季の中でも最も華やかであるからです。

黄のツツジは満開。朱のツツジと奥の紫のシャクナゲが開花し始めています。

そこで考えたことは、 彼女はフクシマの報道で「原発稼働延長政策という罪」(明日12日に正式にバーデン・ヴュルテンべルク州首相に就任する緑の党クレチュマン氏の言葉)を背負っていては権力維持ができないということを直感したのだろうということです。事実、世論調査でもフクシマを境に、世論調査でドイツ市民の脱原発支持率は、それまでの60%から80%へ急上昇しました。
この直感力が働いたのは、おそらく彼女が東ドイツ出身であるからではないのか。市民の意思が大きく動けば、政権はもちろん体制ですら崩壊することを、東欧民主革命当時、若い彼女はその渦中で体験し、しかもそこで意図せず政治家となるという原体験をしているからです。

一夜明けて、今朝のニュースのトップは、メルケル首相が方針転換の際に任命した脱原発に関する「倫理諮問委員会」の、今月末に提出が予定されている答申の草案が、フランクフルターアルゲマイネ紙にリークされたとの報道です
それによれば、1)メルケル首相の判断で緊急停止している7基と事故で以前から停止中の1基の原発8基は、再稼働なしにそのまま廃炉にする。2)残りの9基については遅くとも2021年までに順次廃炉にすることは可能であり、事情によってはそれ以前に全廃にできる可能性がある。というのが主な点です。
追っかけたシュピーゲル誌電子版によると、もっと長期的で大胆なヨーロッパの原発全体にかかわる提案まであるようなので楽しみです。ひょっとすると、メルケル首相は本人が意図する以上の革命的な事業に着手しているのかもしれません。

まだ、最終答申ではありませんが、内閣はこれ答申を参考のひとつとして法案をまとめるので、これはいわば「ドイツの原子力発電への死刑求刑 」の草案といえるでしょう。
これで、長いドイツの原発論争は、いよいよフィナーレの幕が上がりました。 日本の菅首相にも是非注目していただきたいものです。

2011年5月10日火曜日

3:ドイツは政治決断で原発完全撤退へまっしぐら

今日5月9日、ドイツのメルケル首相が官邸に議会の全野党の会派代表者を招いて、脱原発法と関連法案での議会審議への筋道について初めて会談しました。
その成り行きを追っている最中、日本から中部電力が浜岡原発の停止を決定したとの報道もありました。

日本で最も危険な原発が、管内閣の政治主導で理性的に当面といえどもとりあえず停止されたことは、大変うれしいことです。日本の市民はこれで少しは安眠できようというものです。日本における、脱原発再生エネルギー社会実現への貴重な一歩になることを願います。



この写真は、東北大震災から3日後の3月14日の月曜日の午後、閣議を終えたメルケル首相が官邸で記者会見を行った時のものです。左は連立与党の自由民主党党首のウェスターヴェレ副総理(当時)、現外務大臣です。(ちなみに、彼はその後、相次ぐ州選挙での敗退で党内から責任を問われ党首の座から追い落とされました。原発稼働延長を強行に主張した同党は、昨年末から史上最悪の支持率となり、次回総選挙では連邦議会から消える危機にあります。この写真でも表情がすぐれないのはそのためです)。

この記者会見でメルケル首相は、驚くべき政治決断を発表しました。「昨年末に強行に議会を通過させ、今年の年頭から施行している『原発稼働延長法』を事実上3ヶ月間棚上げし、その間1980年までに稼働を始めた古い原発7基を緊急に停止し、フクシマのような事故が起こる可能性について検証する」、また「原子力発電からできるだけ早期に撤退し、再生可能エネルギー発電をさらに促進する」と宣言したのです。理由は「日本のような技術先進国での深刻な事故は『Zäsur/区切り目』である。フクシマの後は、それ以前とは同じではない」。

つまり、それまで 強行に追究し実現した原発稼働延長政策を、いきなりゴミ箱に放り込み、緑の党が主張する政策へと180度の方向転換をすると言うのです。

会見に出席していた大勢の記者は仰天しました。「信じられない」という雰囲気でした。わたしは、この日も福島の事故はまだ進行中であるので、この判断の根拠が知りたく「3ヶ月と区切った理由は何か」と、質問しようと挙手したのですが、わずか数人の記者への質問に答えただけで会見が打ち切られてできませんでした。

この時点で、大半の記者が考えたことは「2週間後に控えているふたつの州選挙へ向けた選挙戦術だ」ということです。メルケル首相は、シュレーダー前首相とは政治姿勢が対極で、じっと情勢を見て決断を示さないことが特徴です。そのため、この発言は、そうとしか考えられないのす。
官邸を出てみると、フクシマの事故が起きた直後から連日のように続いている首相官邸前での、地震の被害者への追悼と反原発抗議集会に参加するためにやってきた野党の大物政治家たちが話し合う姿がありました。
上の写真は官邸正面でのガブリエル社会民主党党首(前環境相/左)、ゾンマー・ドイツ総同盟委員長(右)ですが、彼らも記者会見の内容を知らされ、かなり当惑している様子がうかがえます。

3月14日の官邸前での集会
この日の集まりでは、集まった市民も首相の発言を「原発事故で動転し、追い込まれたメルケル首相の笑うべき選挙対策だ」との見方が大半でした。



事実、それから2週間後の3月27日のバーデン・ヴュルテンブルク州の選挙では、キリスト教民主同盟が、ちょうど日本の自民党と同じく、58年ぶりに敗退し、史上初めて緑の党が第一党となりドイツで初めて同党の首相が政権を奪取しました。この写真は翌28日にベルリンのキリスト教民主同盟の党本部で「敗北宣言」の記者会見です。

ドイツでもっとも豊で(ダイムラー・ベンツやポルシェの本拠地)、もっとも保守的な州で同党の牙城を、よりによって緑の党に明け渡さなければならなかったショックと落胆がいかに大きかったが、マプス州首相(左)とメルケル首相の表情から読み取れます。ふたりからは「残念ながらフクシマで負けた」と歴史的敗因を率直に認める発言がありました。

ここでマプス氏が「選挙戦中の連邦政府の原発政策の転換については、メルケル首相と意志一致があった。フクシマについて『ドイツには日本のような大地震も津波もないから、原発は安全だ』と主張することもできたが、それは責任ある政治家として正しいことではなかった」と述べたことが注目されます。

事実、メルケル首相のアクロバットのような決断は、単なる選挙戦術ではなく、緑の党を追い越すような政治転換であることが、その後明らかになってきました。ドイツは政治決断で原発完全撤退と再生可能エネルギー発電の実現にまっしぐらに進み始めたようです。

今日の、野党党首らとの会談では、どうやら全野党は大筋で脱原発法案実現へのシグナルを出したようです。7月初旬にはメルケル首相の決断が、実を結ぶ可能性が強くなりました。そうなればフクシマの影響は巨大です。

首相としても、それでしか政権を維持することができなくなっていることも事実です。メルケル政権は、フクシマの事故で、原発稼働延長策が自らが掘った罠になり、自ら落ち込んだのです。このことにいち早く気付き決断を下したメルケル氏の判断力は、政治家として優れたものであると言えるでしょう。

 明日の午前、首相は外国人記者協会の記者会見に応じています。ドイツ人記者がうらやむタイミングです。その報告は次回にしましょう。

2011年5月5日木曜日

2:ドイツ市民の哀悼する能力


地震と津波の犠牲者を追悼する日本大使館の半旗
 3月26日の反原発デモの報告の続きを、写真を主として続けましょう。
日本の読者のみなさまに伝えたいことは沢山あるのですが、まづは、なによりもドイツの市民の表情をお伝えしたいからです。
この日のデモは、東西ベルリンが統一して街の中心となったポツダム広場から出発し広大な公園を迂回し、ブランデンブルク門近くの締めくくりの集会の場まで12万人が行進しました。

ヨーロッパ諸国では市民運動の10万人規模の抗議行動は、いつもあるわけではないですが、しかしめづらしいものではありません。わたしの体験では、ドイツの戦後史では10万人で政策が脅かされ、50万人で政権が潰れ、100万人で体制が崩壊します。この日のデモは全国で25万人でしたが、これは3月11日の東北大震災による原発事故がドイツへ及ぼした「政治的大余震」であり、メルケル政権の土台が液状化で大きく傾いたようなものです。

では、その市民の表情をいくつか:
ポツダム広場を出発。乳母車、肩車、子供たちが多いですね。家族連れですからワン公も多いのです。犬たちもデモには慣れていますが、その写真はまた。

 お父さんに手を引かれたこの少女は、手描きのロゴのプラカードを持っています。「君が描いたの?」と訊くと、「当たり前でしょ!」と馬鹿にされました。彼女は行動で意思表示をする市民権の自由をすでに満喫しているようです。

 この子たちは市民団体のポスターです。「これ何語?」「日本語だよ」、「何と書いてあるの?」「Atomkraft? Nain Dankeだよ」。彼女らが初めて知る日本語の文字かもしれません。
(ちなみに、後ろでカメラを廻しているのは取材する日本人を取材するテレビジャーナリストです。3・11以降、立場が逆転して取材されることになってしまいました)


ブランデンブルク門近く大通りを埋めて集会に集まった12万人

その前に、デモ行進から寄り道をして、日本大使館へ行ってみました:
 大使館の通用門前には、3・11以降、大勢の市民が花とロウソクをもって地震と津波の犠牲者を追悼しました。2週間後のこの日も弔問の市民の姿は続いていました。





花で作られた日独の国旗があります。




犠牲者への追悼の言葉が見られます



ひざまついて静かに追悼する市民の姿があります。



このような、市民の姿をみてふと思い出したことがあります。2005年の新年の官邸での首相記者会見のことです。
その前年の2004年の暮れに起こったスマトラ沖大地震と大津波で、インドネシアを始めインド洋沿岸諸国に大きな被害がでました。クリスマス休暇で保養に行っていたドイツ人も多く犠牲になりました。この災害にドイツ市民が示した共感は非常に大きかったのです。被害諸国への救援活動は迅速かつ感動的なものでした。また一般市民が拠出し集まった義捐金が諸国の中でも飛抜けて巨額であったのです。文字どおり子供から年金生活者までの貧富を問わないひとびとの寄付金が膨大な額となり、国際世論で話題となっていました。

そこで、年頭の記者会見で当時のシュレーダー首相に「なぜこれほどドイツ人の共感が大きいとお考えですか」と質問してみました。打てば響くように返ってきたのは「それはドイツ市民の哀悼する能力によるものです」との歯切れ良い言葉でした。

戦後長くドイツ社会はナチ時代の「犠牲者を哀悼する能力が欠落している」と他から非難され、自らも非難してきた苦難の歴史がありました。政治的立場を超えて、社会の大半が、ようやくそれを自覚し心に刻むことができるまでには、戦後世代が社会の中枢になるまでの長い時間が必要でした。首相の簡単明瞭な回答には、その歴史の体験があるのです。会見を終えた首相は、すれ違いざまににっこり笑って、わたしの肩をポンとたたいて執務室に引き揚げたものです。

この「ドイツ市民の哀悼する能力」は、日本の大地震と津波の被害に対しても示されていることが、大使館前の光景でもうかがえます。しかも大原発事故まで加わったためにより大きいものがあります。

今年は、日独国交締結150周年の記念すべき年です。ベルリンでも大使館を中心に多くの行事が計画され始められていました。よりによってこの年に大使館の国旗が半旗になろうとは残念なことです。
しかし、この現実は受け入れざるを得ないものとして、日本大使館は一般市民の弔問にも、通用門外ではなく、せめて構内の建物正面横の半旗の下に献花をしていただくぐらいの配慮があっても良いのではないでしょうか。慣例かも知れないが、東洋君子の国としては、外交儀礼を失しているように思えます。

ラジオを聴きながらこれを書いていると、昨日(5月4日)グリーンピースの人たちが、大使館を訪れて
「福島県の子どもたちを放射線被害から保護するように日本政府への要請文を手渡した」とのニュースがありました。地元公共ラジオは通用門前で待ちうけ、要請文を大使館員に手渡して出てきた代表のチマーマンさんにインタヴューしています。
彼曰く「日本政府が設定した被曝許容値上限20ミリシーベルト/年間というのは、ドイツの原発労働者の上限と同じで、これをもっとも被曝しやすく外で遊ぶことの多い子供たちにあてはめるのは心配でなりません。大使は不在でしたが、要請文は渡して返事もするとのことでした。」

このドイツ人の心遣いが「未来への哀悼」の現れであることが、日本政府に理解する能力があるか否か注目したいものです。原発災害とは未来に対する災害であるのですから。




























2011年5月3日火曜日

1:日本語の反原発ロゴとFUKUSHIMA



みなさま、福島第一原子力発電所の大事故が起こり、このプログを2011年の4月の初旬から始めたく思っていたのですが、今日になってしまいました。

タイトルの写真に使ってある反原発運動のロゴの旗には日本語で「原子力?おことわり」とあります。NGO、市民団体の呼びかけで3月26日に行われたドイツの4大都市での反原発デモで登場したものです。 上の写真が呼びかけのポスターですが「フクシマは警告する:すべての原発を廃棄せよ!」とあります。
この日、デモに参加した市民は全国で25万人であったと報道されています。わたしも参加したベルリンでは12万人の老若男女が、赤ん坊から年寄りまでの世代が一緒になって「原発を即時廃棄せよ」と声を挙げての大行進を行いました。

世界的に有名なこの反原発の ロゴは、当時の日本政府と同様に「原子力の平和利用/アイゼンハワー」という、おそらく「第二次世界大戦後史で最大の嘘」を信じ込んだヨーロッパ諸国が競って原発を建設していた1975年にデンマークで生まれました。
当時21歳の学生であったアンネ・ルントさんが、仲間と抗議行動の相談をしながら「台所で、ニッコリと微笑んでいる太陽をデザインした」との言い伝えがあります。彼女は最近の反原発デモの高まりで、メディアのインタヴューにいそがしくなっているそうです(Anne Lund atomkraft nein dankeで検索すると最近のインタヴュー記事などが多く読めます)。ちなみに、デンマークは彼女らの10年間の反対運動もあり1985年に原発から撤退しました。

その後、このロゴは各国語に翻訳され、世界中の反原発運動の象徴となりました。日本語のこれも、わたしの記憶では1980年代半ばにはすでにありました。当時の日本での反原発運動でも旗はなくても、バッチはかなりありました。ドイツから持ち込まれたものです。
ルントさんはデザインの著作権を行使しなかったので、今またルネサンスのように大量に再コピーされています。写真を見て「なぜドイツで日本語が?」と疑問に思われる若い方も多いでしょうが、これが、最近日本での原発事故を契機にたちまち復活した背景です。 

チェルノブイリ以来の大事故によって、残念なことにFUKUSIMAは HIROSHIMA、NAGASAKIにつづく第三の核被害の日本の地名となってしまいました。ポスターにある太陽は、嘆き恐れている表情をしています。ドイツ市民の大半は事故を、この罪深い人災を、他人事とは考えてはいません。自分の友人と家族の不幸であると感じています。

3月26日のベルリンの大デモの取材をしていたわたしはたまたま集会の前列にいた、古い友人に出会っています。下の写真に見られるベレー帽のクリスチャン君です。ヘッセン州のカッセル市近くの出身のわたしと同世代の彼の両親とともに、1986年であったと思うのですが、初めてドイツの最も古いヴュルガッセンという今では廃炉になっている原発へのデモに参加したことがあります。当時彼は14歳でした。その彼が今では立派な生物学者となり、40歳近いお父さんとなって、10歳になる娘さんと彼女の友人とともにベルリンまでやって来たのです。娘さんらが持っているロゴの太陽は、ルントさんが生んだオリジナルのままで微笑んでいます。

彼の家族に典型なようにドイツの反原発運動は、すでに三世代目です。しかも次第に強くなり、今では社会の中枢を占めています。「石の上にも三世代」とでも言えるかもしれません。
これを顕著に示したのが、このデモの翌日27日に行われた二つの州議会選挙でした。日本でも報道されたように、二つの州で緑の党が躍進し、バーデン・ ヴュッテンベルク州では、歴史上初めて緑の党の州首相が生まれたのです(注)。
それだけではありません、その後も世論調査では全国的に緑の党が躍進を続け、2013年秋の総選挙では、同じく脱原発を主張する社会民主党との連立で、緑の党の連邦政府首相誕生の可能性が現実性を持ってきています。
現メルケル首相の中道保守政権は、昨年の秋に原発稼働延長の法案を議会で強行採決し、今年から同法が施行されたとたんにフクシマの大事故が起こりました。大打撃を受けて、早期原発撤退への180度の方針転換を行いました。このアクロバットのようなメルケル首相の政治決断が(それを表明した3月14日の記者会見では、わたしも仰天したのですが)、しかし次期総選挙で功を奏するか否かは、今のところ疑問です。余りにも日和見であることを市民が見抜いているからです。

ただ、この夏中には、ドイツはおそらく2020年前後をめどにした、全原発廃棄とそれに伴う再生可能エネルギー推進の長期計画法案の議会決議を行うことは、ほぼ確実であろうということです。
これを、日本はもちろん、世界中が息を呑んで注目しています。世界第四位で、ヨーロッパ同盟で最大の経済力を持つこの国が、産業の基本であるエネルギー政策で根本的な改革に大胆に踏み出すことになれば、世界の原発ロビーにとっては大打撃であり、環境保護ロビーにとっては大躍進の契機となるからです。つまり時代を画する出来事になるからです。

さて、これを初めとして、いつ終わるとも知れないFUKUSHIMAの嘆きと恐怖が続く中で、安心と微笑みを取り戻そうとするドイツ市民と政治家の闘いと、さらには日本の原発政策批判を、ベルリンの現場から「覚え書き」として報告していきたいと思います。
特に専門知識は余るほどあっても、人間への共感を喪失してしまっている原発推進ロビーの専門家や政治家のみなさんにもその立場がいかなるものであるかを理解していただけるように、できるだけ分かり易く、かつ厳しく書く努力をいたします。「明日うらしま」の役割とはそのようなものとして考えているからです。

(注:『世界』は事故の前に「原子力復興という危険な夢」を2011年1月号で特集しています。昨年11月末執筆の同号へのわたしの寄稿「政権を揺さぶるドイツ反原発運動」で予想した緑の党州政権の実現は当たりました。しかし、それが日本の原発事故により実現するなどとは全く予想できず、実に痛く苦いことです。) 

 なを、このブログでの写真は断りのない限り、わたしの撮影したものです。無断の使用と転載などは固く禁じます。また記事での日付はすべて中央ヨーロッパの時間です。現在は夏時間で、日本との時差は7時間遅れです。