2014年11月26日水曜日

275:盛り上がった班忠義監督を迎えて「ガイサンシー」上映会・「ベルリンの空気」に触れて越える歴史の壁

 少し報告が遅くなりましたが、→先に予告しましたように11月14日、ベルリンで班忠義監督を迎えた映画『ガイサンシーとその姉妹たち』の上映会が行われました。
 緊急に準備し、予告は一週間前になりましたが30名を越える参加があり、上映後の監督との質疑応答も盛り上がり、大変に印象深い上映会となりました。

以下簡単な報告です。



いつものようにお二人の司会で始まりました。

狭い会場はほぼ満席です。



まず、班監督より、背景となる中国山西省の時代的背景の解説が行われました。また日本軍の慰安所制度は監督の見方でがは5段階あり、一般によく知られている韓国・朝鮮人女性が強いられた「慰安所」と、日中戦争最前線での 小部隊による犯罪は、もはや「慰安所」などとはいえない性暴力の文字どおりの強姦所であったことなどが述べられました。

上映の後に、監督との活発な質疑応答が行われましたが、主に監督の映画を作る長年の苦労と体験に関する質問が多くありました。10年もかけての努力があります。日本ではいまだにほとんど知られていない過酷な史実の体験者の、それも被害者と加害者の証言には非常な力があります。

ところが監督の苦労話は、ユーモアに溢れており会場を沸かせました。「内容に政権の宣伝がまったくないので、中国では上映がいまだにできない」あるいは「日本でも上映には気を使かうことが多い」といった深刻な問題も、ベルリンの関心の高い雰囲気のせいでしょうか、皮肉たっぷりに話され、ここでは苦労がふっ切れて解放されたような話しぶりでした。 「この映画の周りにも大きな『壁』があるのです」という監督は、その『壁』のなくなったベルリンのリベラルで史実を真剣に直視する空気を吸ってすっかり元気が出たようです。巧みな表現でした。歴史認識の壁は強固なものです。

 古い歌曲にもある「ベルリンの空気・→Berliner Luft(ここは20年前のベルリンフィルの小沢征爾指揮)」とは今も健在であるだけでなく、むしろ強くなっています。かつて19世紀末にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世を笑いとばした→オペレッタの主題歌は、ナチスさえも弾圧できずいまだにベルリン市民の「非公式の讃歌・市歌」です。これはいわば、東京音頭のようなものでしょう。しかし歌詞はべらんめー調の生粋のベルリン弁で、きわめて辛辣なところは大違いですが。であるからこそ今でも熱く愛されています。ベルリンっこは、この曲を聴くと自然に身体が動き始めます。

 班監督はこの雰囲気を敏感に感じ取ったようです。奇とすべきは、このようにしてかつての日本の侵略地で生まれた、班忠義と小沢征爾は加害と被害の壁を越えて、今ベルリンの空気の中で出会ったことです。予告にも書きましたように、班監督は、現遼寧省撫順の生まれの労働者の子弟であり、小沢征爾はすぐ近くの瀋陽(旧奉天)生まれの満州侵略者の子弟です。ふたりの芸術家はこうして彼らの作品で歴史の壁を越えて出会ったといえます。

今回は、日本語バージョンの上映会となりましたが、それでも20代、30代の若い世代の中国人やドイツ人も熱心に参加し、その多くが感想のアンケートにも答えたとのことです。もしドイツ語版が準備できれば、間違いなく大きな映画館で上映できる作品であることは間違いありません。 また監督が現在取り組んでいる次の映画に期待する声も多くあり、それへのカンパを呼びかけたところ、予想を越える金額が寄せられたとのことです。
この作品のインパクトの大きさがベルリンの自由の空気に触れて現れたといえましょう。


班忠義監督に筆者からも感謝致します。次の作品が完成すればまたベルリンを訪問されるでしょう。その日が近いうちに来ることをお待ちしています。

この映画に関しては、その背景と体験を詳しく述べた同名の→監督の著作があります。今回この作品をご覧になった方も含めて、また関心のある方も是非、梨の木社に注文して読んでください。日本軍の性暴力の貴重な記録です。産經新聞と読売新聞の若い記者たちには特に読んでいただきたい本です。












2014年11月13日木曜日

274:安倍内閣の早期退陣を・みじめな日中「首脳会談」での醜態は首相として失格

 11月10日、北京の人民公会堂で行われたアペックでの安倍晋三首相と習近平主席の首脳会談の報道を見て、愕然とした人は多いことでしょう。

まずは、世界中に報道された両者の初めての握手のこの写真。
  硬い表情で握手を交わす安倍首相と習近平主席 Getty Images

 アメリカのウオールストリートジャーナルは電子版で「凍りついた握手」との見出しで、「→ このビデオでも分かる通り、両首脳の会談はあまり友好的と言えるものではなかったようだ。習国家主席は見るからに安倍首相の挨拶に応えるのを拒否し、写真撮影の間中、まるで、尖閣諸島(中国名:釣魚島)から乏しい草木をむしり取っている一匹のヤギと握手しているかのように見えた」とまで書いています。引用されているビデオは中国側のものです。これを見ると、他の首脳とは別に、安倍首相は廊下のようなところで待たされていることが判ります。まるで勝手口に来たご用聞き扱いされています。

中国側としては、会議の主催者でもあるので、「合意書」を一札入れさせて公表したうえで仕方なく会ったということです。それ自体が前代未聞のことですが、両国の国旗もなくソファーだけの部屋で、20数分話し、しかもその7割は習主席が話したと報道されています。通訳が入りますので、安倍首相には3分か4分ぐらいしか時間がなかったことになります。これはとても首脳会談と呼べるものではありません。
→中国側の報道では「中国政府はこれは『会見』であり『会談』とはしていない。一字違いだがこれには千里の差がある」とあります。

日本政府は「首脳会談が実現した」と、あたかも成果があったかのような見解を述べていますが、日中国交回復以来最低の「会談」であったことを証明したにすぎません。

わたしもベルリンで多くの首脳会談の記者会見を体験していますが、こんなみじめなものは記憶にありません。愕然とし情けなくなるだけです。
ベルリンには多くの首脳が毎週のように訪問してメルケル首相と会談をしていますが、ドイツの首相府でこのような握手があれば、大きなスキャンダルとなります。

以下韓国、中国、日本の首脳との握手の写真を挙げておきましょう。いずれも今年のものでわたしが撮影したものです。

 まずは、3月26日に会談した韓国の朴大統領とメルケル首相。
次は、その2日後の3月28日に大訪問団を引き連れて訪独した中国の習主席。
 それからひと月後の4月30日に会談した安倍首相との会談後の写真です。
いずれもベルリンの首相府での会談を終えた記者会見後の写真ですが、これが常識的な首脳会談というものです。
特に朴大統領との記者会見ではメルケル首相の韓国に対する思いやりが、言葉と仕草ににじみ出ており、密かに感動すらしたものです。
 ドイツ語には「Macht des Wortes /言葉の力」、また「Macht des Bildes/画像の力」という成語があります。これを駆使するのが政治であり外交です。

 北京での会談は、安倍首相の挨拶に無言で顔をそらす習主席の仕草が、それを決定しました。挨拶にも無言で応え、笑顔も見せず顔をそむける仕草。外交の舞台では、あってはならないことです。このような場面を予測できなかったのは日本の外交の失態です。さらにこのような事態に直面して、その場で首相として判断ができない安倍氏は一国の代表として失格です。

 もしわたしが首相の立場でこのような侮辱的な扱いを受けたら、その場で「失礼します」と述べて席を蹴ります。それもできない安倍晋三氏は一国の首相としての矜持を国際舞台で失ったことになります。
 みじめな醜態をさらした安倍氏には早期に退陣していただくしかありません。ここまで日中関係を悪化させた責任の大半が、安倍氏の歴史認識にあることは、いまや世界では周知されているところです。

この結果を良く表現している報道があります。
北京のアペックについて、本日12日の南ドイツ新聞の論説欄のひとこまマンガを紹介しましょう。
Süddeutsche Zeitung 12.Nov.2014
タイトルは「地軸の構成」です。環太平洋をめぐって、習主席とオバマ大統領が両軸となろうと競っています。側からプーチン大統領と安倍首相も一緒にやりたそうにしています。
中国の股下を這いつくばっている日本の姿が、今回の安倍・習「首脳会談」で露骨に示されたのです。これが国際世論のが見た今の安倍内閣の日本の姿です。
一日でも早い退陣こそが日本の国益でもあり世界のためでもあります。

 解散風が吹いていますが、いずれにしてもアベノミクスは破綻しており、政権下で累積を続けている財政赤字は史上最悪の水準です。まもなく国際金融市場で日本売りは不可避です。残念ながら国際金融資本というハゲタカは、次の格好の餌食である日本の上空を舞っているのです。返済できない借金という腐肉で太るのが資本主義です。免れない破綻は早く来た方が良いのです。




2014年11月12日水曜日

273:市民の手で夜空に消えた「光の境界」:ベルリンの壁崩壊25周年記念行事写真報告

 読者のみなさま、日本のメディアもかなり報道していますが、11月9日はベルリンの壁が崩壊してちょうど25年の記念日でした。したがって節目の今年は政府とベルリン市による大きなイベントと式典が7日から9日にかけて数多くありました。

 この3日間、気温はかなり低下していますが、幸い天候にも恵まれましたので、目玉であるイベントとしてベルリン市が市民を動員して企画した「光の境界」を散歩がてら見て歩きました。なにしろ二度と見られない光景ですし、ベルリンの壁の時代の約半分、壁に囲まれた孤島で14年間暮らしたわたしには、いささかならぬ思い入れもあります。以下はその写真報告です。(写真をクリックするとパノラマで見れます。)

 これはベルリンを分断していた155キロメートルの壁の内、都心の15キロに約8000(実際には6800との説もある)のヘリウムガスの風船を並べて、夜には点灯して9日の夜7時から、ブランデンブルグ門から南北方向に順次、市民の手によりそれぞれメッセージをつけた風船を飛ばすという行事です。
この季節は北国のベルリンでは午後5時にはすでに暗くなります。

まずは7日の写真です。
 前日から風船が並べ始められたのことなので昼食後、自転車で様子を見にいきました。
ブランデンブルグ門前の舞台がほぼ完成しており、風船も並べられはじめていました。
イベントに参加する生徒たちが予行演習をしていました。何しろ壁崩壊の恩人である来賓ゴルバチョフのホスト役までやるのですから、かなり真剣な様子でした。
これはシュプレー河の東西ベルリンの境界であったところを西側から東を見たところ。
モダンな建物は川をまたいで建設された世界では最も立派な国会議員会館の一部です。
ちょうど船のところが東西世界の境界でした。風船の場所に壁がありました。
その対岸の東側から見た西側の国会議事堂。先日紹介しました→古い論考に出てくる光景の一部です。
議員会館の建物前の歩道に掲げられた横断幕。「わたしは何ひとつ罪を犯していないことは、今日でも言える」。この言葉を遺したアレックス・ハネマンさんは1962年夏の壁構築後間もなく、河を泳いで渡ろうとして、東ドイツの国境警備隊により銃殺されました。わずか17歳でした。
壁で遮断され人が殺された情景とはとても思えない東西ベルリンの境界の現在。 東西を繋ぐ橋が建設され、観光バスが走り、観光船がひっきりなしです。
この日の午後五時に、市長が風船の点灯式を行ったのですが、わたしはうっかりして自転車のライトを忘れてきたので、それはあきらめて明るいうちに帰宅しました。

11月8日の夜の写真
この日はなか日でまだ人出も少ないので写真を撮りに夕刻から電車で出かけました。
ベルリン中央駅前の橋から。点灯された風船の光の境界が川面に映っています。
13夜の月も昇りつつあります。
→古い論考にある光景はこのちょうどこの先場所です。監視塔があった場所です。
河をまたぐ議員会館を繋ぐ歩道橋。左奥が国会議事堂。
歩道橋からみた議員会館の東側建物。
同じく歩道橋から見た東北側。建物は連邦プレス会議。ここに日本の報道機関の支局も多く入っています。
同、南側。この日は湾曲する河を通過する観光船の汽笛が、犠牲者を追悼するようにでした。
対岸の国会議事堂。

さて、対岸に渡って、もうひとつある議員会館に添って、ガラス張りのフェンスがあり、そこからは議員たちの仕事場を見通すことができます。「民主主義はガラス張」を文字どおり実践しています。そしてこのフェンスには憲法(ドイツ基本法)第一条からの基本権条項が刻まれ、夜は緑にライトアップされています。この日はそこに光の風船が映っていました。
市民たちも記念写真。「憲法のとなりでの写真はいいね」との声が聴こえます。ドイツを統一した法的根拠がこれです。「憲法愛国主義」は市民の中に生きています。正面奥が国会。
そこから見た対岸の議員会館。
さて、国会議事堂の裏門です。普段は議員たちはここから出入りします。
西側にあったこの国会の裏門に添って壁がありました。30年前に議事堂のテラスから壁を見たことが思い出されます。
そこからは、ブランデンブルグ門が直ぐです。
多分この写真がこの日の一番の成功作。

門の側のベルリンの壁での犠牲者の十字架には花輪とロウソクが供えられています。
門での舞台では、次々とライトアップされたハイテクの光のショウが行われています。
終わりにブランデンブルグ門の直ぐ南のホロコースト犠牲者追悼記念碑まで行きました。それに添った光の境界をしばらく行くと観光名所のポツダム広場ですが、そこはまぶし過ぎるので避けます。

 記念碑の石柱の上の月。三脚なしにはちゃんと撮れませんね。

 11月9日の本番の夜

この日も、観光客で溢れるポツダム広場を避けて、クロイツベルク区の歴史遺跡のある場所へ電車で行ってみました。
前方がポツダム広場。ここの壁は南北に一直線でした。
本番のこの日は、目的の旧プリンツ・アルブレヒト通も多くの市民で溢れています。
市民が家族連れで、子供たちも多勢います。
このお父さんは、最近流行っている自転車トラックに子供ふたりを乗せて見物です。
旧プロイセン州議会議事堂。現ベルリン市議会。1918年11月9日には、この建物のバルコニーからも共和国宣言が行われています。皇帝が退位し、帝政ドイツの終焉とドイツ革命の始まった日付です。
この東ベルリン側の市議会建物から壁を隔てて正面の西ベルリン側にあるのが、マーチン・ゴロピウスという建築家名前のついた歴史建造物(下の写真)で現在は大きな展覧会場になっています。戦災で外壁しか残っていなかったのですが80年代に修復しました。
市議会の前の駐輪ブロックにのって写していると、隣りではワンちゃんも撮影につき合っていました。
さてこの建物の隣りの敷地には、オリジナルのベルリンの壁が遺されています。この敷地はナチ時代に国家秘密警察本部(ゲシュタポ)本部などがあったところで、20世紀の悪の中枢の場所です。西ベルリン側にあったこの戦災にあった建物は、取り壊されて広大な敷地は壁の側で自動車学校の教習場として利用されていました。85年の敗戦40年周年記念日である5月8日に、市民運動が文字どおりスコップで壁の側を掘り起こして、ゲシュタポの地下牢獄の遺跡を発見した時から、ここをドイツの負の歴史の現場として保存する市民運動が起こりました。加害の歴史を直視する市民運動の発祥の場所です。
この日、ボンにあった国会では、ワイツゼッカー大統領が歴史的な「荒野の40年」の演説をしています。この市民と大統領の動きは連動して当時の西ドイツ社会の歴史認識を固める原点となったのです。
長い歴史を経て、ようやくここに「テロの地勢誌」というナチスドイツの加害の歴史を記録する施設が2010年に完成しました。と同時に冷戦期の暴力の遺跡である壁も保存されたのです。

ここの壁は都心にあり、かなり削り取られて鉄筋があらわになっている状態なのでフェンスで保護されています。

このとおり、ぽっかり穴があいたところもありますが、今夜はここが文字どおりの穴場になっていますね。光の壁の風船の陰が映ったオリジナルの壁。この写真は歴史的です。
穴からは敷地内の展示場の灯りが見えます。

敷地内に入って壁の反対側を見ましょう。壁が欠落した所から光の風船が見えます。
背景の巨大なナチスの典型的な建造物は、ゲーリングの航空省です。現在は財務省です。
この日は、多くの人が加害の歴史の展示を見に来ているようです。

 なぜわたしがこの日ここに来たかは、理由があります。ナチスのテロ支配と戦争がなければドイツの分断も、したがってベルリンの壁もなかったからです。
 20世紀の戦争と冷静と分断の原点とそれを克服できた歴史の現場のひとつがこの場所なのです。欧州で戦争の始まる前年の1938年の11月9日の夜には、全ドイツの約7000カ所で一斉にユダヤ人商店やシナゴーグなどが焼き討ちされた 「帝国ポグロムの夜」が起こっています。それを組織的に実行したのもゲシュタポ長官でSS親衛隊長のヒムラーの配下の親衛隊員でした。

このように11月9日という日はドイツにとっては重層的に宿命の日付なのです。それを象徴する歴史の現場が、この通にはあるのです。
良い写真が撮れたので、少し足を伸ばして、チェックポイントチャリーまで行くことにしました。
途中にわたしも知らなかったのですが、観光客相手のトラビ博物館ができていました。
トラバントという名の東ドイツ時代の大衆車のことです。
チェクポイントチャリー。この四つ角は観光客も多く立錐の余地もない混雑です。メディア用の高い舞台も作られていましたが、記者証見せてそこに上がったのですが、市民の話しが聴けないので、少し写真だけとって降りました。
壁構築の直後、ここで米ソの戦車がにらみ合いをした場所で、欧州における東西冷戦の軍事的最前線でした。
人ごみを抜けてしばらく行くと、いるいる赤い上着の背中にBallonpaten/風船後見人とあります。
実は、この光の風船にはひとつひとつに市民の後見人が応募してついています。このご夫婦の話を聴きました。ふたりは東ドイツの出身で、奥さんはが壁ができた62年生まれで、結婚して平和運動をやっていたが、壁が崩壊した直後に子供が生まれた。「だから私たちには壁とその消滅はそのまま人生の歴史なのです。だから後見人になって、もう一度壁を消すことにしました」。かれらが付けているバッジは、東ドイツの民主化市民運度の中枢となった「新フォーラム」のもので「剣を鋤きに鋳直す」シンボルマークです。わたしも25年ぶりになつかしく見ました。
この場所で壁を越えようとして銃殺されたある犠牲者の追悼碑。
そこでは、年配の女性が、風船に付けるメッセージを結びつけるのにとまどっていました。寒いので指がかじかんでいるのです。
メッセージを見せてもらいました。「統一した(東西)ドイツがお互いに平和と調和のなかで生活できますように!」とあります。
このお二人も東出身です。素朴で率直な市民の典型的な願いです。
そうこうするうちににこのあたりもかなり混みあってきました。そろそろ、見通しの良いところで定点を決めなければなりません。
ちょうど、世話人たちのたまり場があったので、そこの側にしました。調子の悪い風船を修理していました。
時間が迫ってお母さんと相談しながらメッセージを書く少女。
わたしの立っている側でも女の子が熱心に書いています。
書けたよとお父さんに見せています。
お父さん、読みもしないで風船にくくりつけています。
そこでわたしが読ませてもらいました。「壁の崩壊は私たちにとって大変意義のある出来事です。自由はいつもあこがれであったことを示しています。壁を越えることできたのは、人々にとって最も素晴らしい歴史の出来事のひとつでした」とあります。
この親子は西側の家族です。娘さんは14歳。お父さんは壁崩壊の時は16歳で、いまはメディア関係の仕事をしている。自分の体験した壁崩壊の体験を娘さんに伝えたいので、後見人になった。「学校教育でもちゃんと教えない教師がいまでは多いのでね」というのです。「しかし娘さんのメッセージは歴史の時間に習った復習のようにえらく客観的ですよ」とわたし。「ということは中にはちゃんとした教師もいるみたいだね」などといって笑っていると、側で聴耳立ていた女性たちが、あれやこれやと話しかけてきて、それぞれの体験の話が盛り上がります。ついにはわたしも問われて体験を話すはめに。そして、「あなた風船が上がりだしたら教えてね、ちゃんと見たいのだから」ときました。

 このドイツ市民の雰囲気は、明らかに25年前の出来事が今でも生き生きと記憶に刻まれており、 この日また1989年11月9日の夜のベルリンの路上での感動が、生き生きとよみがえっていたのです。ドイツの近代史の「集団的記憶」の現れです。

 さてブランデンブルグ門で19時に最初の風船が上げられてからここまで来るのには約20分かかっています。以下は遠くから上がり始めた風船の様子です。
 



このようにして、ベルリンの壁を象徴した「光の境界」は25年後のこの日、若い市民たちの手で夜空に消えていきました。

電車や地下鉄も満員なので徒歩で帰宅する市民も多かったようです。わたしも帰宅に普段の倍の時間がかかりました。どれだけの人出があったか、正確なことは判らないようです。

以上の写真は、全てわたしが撮影したものですから無断で転用や引用をしないでください。転用の場合は下のコメント欄で連絡したうえで、必ず撮影者の名前を入れてください。よろしく。