2015年1月12日月曜日

280:「筆は銃弾より強し」パリの追悼デモに連帯するベルリン市民 Je suis Charlie in Berlin 11.1.2015

Berlin Pariser Platz 11.1.2015

 本日、1月11日のパリでの追悼デモには最新の報道では150万人、フランス全土では300万人を越えたと報道されています。パリでのデモではパレスチナ自治区議長のアバス氏とイスラエルの首相がオランデ大統領とメルケル首相と並んでデモをするという、およそ昨日までは想像を絶する光景が見られました。スローガンは「イスラム・キリスト・ユダヤ全てがシャルリーだ」とする宗教と民族を超えた言論の自由の防衛への連帯意志の表現です。

 パリからの報道によってわたしが最も感動したのは、デモの先頭に並んだ犠牲者の遺族たちのなかの襲撃された新聞の生き残りの編集者にオランデ大統領が抱擁で哀悼を示す行為でした。オランデ大統領も、この新聞に例外なくこれでもかと言わんばかりに風刺され、侮辱され続けているのです。これこそがボルテール以来のリベラリズムのあるべき姿です。わが日本の安倍首相などは、彼の爪の垢を煎じて飲ましても、この真似すらできないでしょう。
 
 ところでここにオバマ、プーチンの米露両大統領の姿が見られなかったことこそが、現在の世界情勢の有り様をこれも見事に物語っています。
 彼らはこれに参加することに躊躇せざるをえないからです。なぜなら彼らの前世紀からの冷戦時代からの軍事力に依拠する支配イデオロギーが、現在の世界中のテロと戦争の根本的な原因であるからです。ベトナム戦争後では、旧ソ連邦のアフガニスタンへの侵攻、それに対するアメリカのアルカイダの育成こそが、このような9・11以来のテロリズムを育成した根本的原因なのです。

 このパリでのテロ行為の実行犯3名はいずれもフランスの旧植民地諸国からの移民のフランス生まれの二世です。 生まれた国での差別と、彼らのアイデンティーの根であるイスラム文化圏諸国でのアメリカとフランスなどの同盟諸国の恐るべき軍事暴力が、この若者たちを恐るべき犯罪に駆り立てたことは間違いないでしょう。このような非道は世界のあちこちで日常的に起こっているからです。彼らの行為は暴力の連鎖の小さな現れにすぎません。その意味では、この確信犯たちもみじめな犠牲者であると言えましょう。

 しかし、この17名の犠牲者(内5人はユダヤ系フランス人。ひとりは同じイスラム教徒)をもたらしたこの事件は、世界文明の中枢神経へのテロでした。
  フランスは劇作家モリエールや思想家ボルテールらの啓蒙思想によって、1789年の革命で、世界で初めて国権による言論検閲を廃止した国です。その後ナポレオンが検閲を一時復活させましたが、その後は風刺芸術家ドーミエや、ドレフーズ事件での作家ゾラなどによって表現と言論の自由の意志が貫かれた社会なのです。小さな風刺新聞へのカラシニコフでの襲撃が、その世界に誇るべき伝統への襲撃として受け止められたのです。この連鎖を断ち切ろうとするのが本日のフランスの市民の意思表示なのです。
 
 米露は、このパリでの言論の自由に対する銃によるテロ攻撃に抗議して「筆は銃弾よりも強し」とデモ行進したフランスの市民の意志から学ばねばなりません。そうしない限り世界平和の実現は不可能です。

 本日、パリの追悼デモと同時にベルリンでも悪天候の中で、ブランデンブルグ門前のパリ広場のフランス大使館前で連帯の追悼行動が行われました。以下はその光景の写真です。メディアは5000人から18000人の参加があったと伝えています。わたしの観察ではのべで10000人ほどでしょう。全てわたしが撮影した市民の姿です。














































4 件のコメント:

  1. 2011年にノルウェー人Stoltenbergが掲げたMehr Menschlichkeitというプラカードが出ていますが、シャルリ達がやっていたことはまさに第三者の人間性を破壊するものではなかったでしょうか。Satire darf allesというようなことを主張する人たちは、そうでなくてさえ既に人間性を完全に剥奪されていたナチス強制収容所にぶち込まれていた人たちの状況を風刺的に描いて読者を笑わせることがドイツで許されるとでも言うのでしょうか?
       別なプラカードにはTöten in Gottes Namenと読めますが、そういうプラカードを掲げている人たちは、自分たちがナチスによるユダヤ人虐殺をもそのように言って正当化した、十字軍によるイスラム教徒の虐殺を正当化したキリスト教徒の末裔である、という自覚があるのでしょうか?
      表現の自由が基本的人権の大事な要素であることは認めますが、その行使にあたっては他者の人権を傷つけないように配慮することは絶対に必要である、その意味では、Satire darf nicht allesが正道である、と思います。
    村岡崇光(オランダ在)

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  2. 村岡先生、
    今日発売された『シャルリーエブド』の最新号に対して、イスラム諸国、ないしは社会からの反発が起こり、さらにテロが起こることが懸念されます。
    風刺がどこまで許されるかについては議論があるところで、基本的にはメディア媒体のそれぞれの判断に任されるべきです。ただ、言論への批判は言論で応えるべきであって、テロで応えることだけは許されません。

    ここで、問われていることは他者の文化・宗教・言論を受け入れる社会の寛容性だと思います。

    キリスト教社会がかつて十字軍と宗教改革時の戦争で自他ともに悲惨な被害を起こしたことから、政治と宗教の厳格な分離、信仰の自由の原則に到達するまでどれだけ時間がかかったかを想起する必要があります。
    日本でも70年前までの国家神道がどれだけの被害を自他に及ぼしたかを考えれば判ることです。

    イスラム教は本来は非常に寛容で、オスマントルコの支配下ではキリスト教徒もユダヤ教徒も長く共存していた歴史があります。その伝統を生かしてほしいものです。

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    1. 梶村さん
      言論による攻撃に武力によって、テロ行為によって答えることを弁護するつもりは一切ありません。オスマントルコ支配下でも他者の宗教を公然と風刺するというようなことがあったら、共存は不可能だったでしょう。梶村さんはご存知でしょうが、ジュネーブに本部を置くPECという団体が今日の風刺紙に出ている記事に関して声明を発表しています:フランス語版を和訳しましたので、ここに添付します。同じ報道関係者達の団体からの発言として貴重なものだと思います。

      ジュネーヴ 13.1.2015(PEC)

      La Presse Emblème Campagne (PEC)は1月14日(水)街角で販売された「シャルリエブド」の最近の号に対して距離を置きたいと思います。同誌の第一面に出ている風刺は無神経で、緊張を緩和しなければならない時に火に油を注ぐようなものである、と私たちは申し上げたい。「シャルリエブドの編集陣が過激派の脅迫には屈するつもりはないという意志を表明したいというのは理解出来ますが、だからといってなにを書いても良い、なにを描いても良いということにはなりません。表現の自由には一定の限度があり、これは相互に対する敬意によって規定された限界です」と、PECの総書記のブレーズ・ランパンは申しました。

      「報道に携わる者は職業倫理を尊重します。特に第三者の名誉を傷つけるような、侮辱的な発言は慎まなければなりません」とも彼は付言しました。

      PECは、先週水曜日のフランスの風刺誌に対する暗殺行為は正当化出来ないものとして断固として非難しました。しかし、今必要なのは、状況の冷却化を図り、相手の感情を害するような、挑発的な、無用な発言によって過激派の手に乗らないことではないか、というのがPEC の立場です。このことはあらゆる宗教、信条に妥当します。

      PECの会長ヘダヤト・アブデル・ナビは、表現・思想の自由と報道倫理の間にはきわどい一線が画されていることを強調しました。シャルリエブドは今回に限らず、過去においてもその一線を越えたというのが彼の主張です。

      ジュネーヴに本部を置く報道関係者の団体であるPECはもう十年以上にわたって、世界の危険地域における報道関係者の安全措置が強化されるよう努力してきました。ものの言い方や、服装などに留意するということは報道関係者の安全度を高めるための基本的な配慮であります。

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  3. 村岡先生、

    この声明は承知しております。
    翻訳ありがとうございました。
    この問題はとてつもなく大きいので、世界的な大きな議論となるでしょう。いずれにせよ時代を象徴する出来事で、とても簡単な解決はあり得ないと思います。

    いずれにせよ注意深く観察したいと思います。

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