2016年8月12日金曜日

325:ベルリンでの「慰安婦」問題の真の解決へ向けたアクションのお報せ/「日韓合意」は「雪隠で饅頭」のごとし

 みなさま、
 毎年8月にお伝えしてきましたが、今年もここ数年恒例になったベルリンでの「慰安婦」問題の解決に向けた、日韓独の諸団体による国際連帯行動がパーフォーマンスも含めて多彩に行われます。

 ベルリンはここ数日、むしろ寒いほどの天候ですが、13日の土曜日は天気も回復するとの予報ですので、こぞって参加を呼びかけます。
以下はチラシと、その同文の→日独語の呼びかけ文です。

 この国際連帯は多くのソーシャルメディアでつながっており、その一例ですが、ベルリンの日本大使館前での→たった一人のスタンディングデモも、今年の初めから根気づよく続けられています。

 この問題は、ドイツでも市民運動としてだけでなく、ついにドイツ政府が2000年に強制労働補償立法の事業のひとつとして設立した世界的に有名な「記憶・責任・未来財団」が先の6月29日に開催したシンポジウム→「問われなかった軍の買春施設」で、テーマとされ、多くの研究者などから注目されています。

 わたしの意見ですが、ドイツの世論も含めて これまでの国連以下の国際機関でのこの問題に関する多くの見解を見ても、現在日韓両政府間で「合意」されたという 基金は、被害者の意志を踏みにじる第二の犯罪です。こんなことで日韓両政府の歴史的責任は果たすことはありえません。
 10億円の賄賂で事を糊塗しようとする両政府の政策は、戦争責任に関する普遍的な歴史認識で雪隠詰めになってしまっていることに気付かない日本安倍、ならびに韓国朴政権が→雪隠で饅頭を喰おうとする恥ずかしくも滑稽なものでしかありません。この事実に気付かない朝日新聞以下の日本の大半のメディアの姿も同じことです。

追伸:安倍改造内閣に日本の極右稲田朋美氏が防衛大臣になりましたが、これを世界中のメディアがどう見ているかについてIWJ レポートを今日から始めています。
国際的視点からは立派な日本のスキャンダルなのですが、そう受け止められない日本の世論は常規を逸しています。 →IWJ検証レポート稲田朋美新防衛大臣研究 1

日韓「合意」NO!「慰安婦」問題の真の解決を求めるスタンディング・デモ/パネル展示/パーフォーマンスへのお誘い

日時: 2016年8月13日(土) 16時から18時まで
場所: Pariser Platz (ベルリン 市ブランデンブルク門前の広場)


8 月14日は、日本軍「慰安婦」メモリアル・デーです。1991年のこの日に金学順さんが日本軍の「慰安婦」だったと名乗りでてから25年が経ちました。その間、アジア各地で被害を受けた女性たちが、日本政府に公的謝罪とその証しとしての補償を求めてきました。しかし、日本政府は未だにその願いに応えていません。

昨年12月には日本政府と韓国政府との間でいわゆる日韓「合意」がなされました。「合意」は「慰安婦」問題の「最終的かつ不可逆的」な解決だと、安倍政権はいいます。本当にそうでしょうか。「合意」は、被害者の声を聞かずに結ばれました。韓国に基金を設立するために日本が資金を出すとのことですが、それには、市民の手でソウルに建てられた「平和の碑」の撤去と引き換えとの条件がつき、韓国の被害者は「合意」により愚弄されたと憤りました。その上、安倍政権は他の被害国との交渉を拒否しています。韓国以外の被害者を完全に無視しているのです。これでは、とても解決とは言えません。
アジア各地の被害者たちは高齢に達しています。この人たちの名誉を回復させるための時間は、もう残されていません。私たちは、この「合意」を撤回し、すべての被害者にとって真に解決に値する施策を、速やかに実施するよう、日本政府に求めます。

私たちは、8月13日に、アジア各地の被害者に思いを馳せ、「慰安婦」問題の真の解決を求めるスタンディング・デモを行います。各地で女性たちが被った被害の様子を記したパネル展示や各種のパーフォーマンスもあります。お友達をお誘いあわせてご参加ください。

ベルリン・女の会
talk.in.japanese.jtib@gmail.com


パネル展示: 韓国/北朝鮮/中国/台湾/インドネシア/マレーシア/フィリピン/オランダ/東チモール

パーフォーマンス: Kazuma Glen Motomura (Bodypoet)/ Mok Jin-hak(歌唱)/Kaya Tanzgruppe(舞踏)/生きている「平和の碑」 

主催:AG„Trostfrauen“ im Korea Verband e.V./Courage Kim Hak-soon-Aktionsbündnis zur Aussöhnung im Asien-Pazifik Raum/Deutsch-Japanisches Friedensforum Berlin/
Deutsche Ostasienmission (DOAM)/Japanische Fraueninitiative Berlin/Koreanische Frauengruppe in Deutschland

協賛:Amnesty International Japan-Koordinationsgruppe/
Deutsch-Chinesische Kooperation in Ausbildung, Wissenschaft und Kultur e.V./
Pazifik-Informationsstelle/Stiftung Asienhaus/TERRE DES FEMMES - Menschenrechte für die Frau e.V.

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Mahnwache in Gedenken an die „Trostfrauen“
Für die Annullierung der koreanisch-japanischen Vereinbarung! Für eine Lösung, wie sie die Überlebenden fordern!


Samstag 13.08.2016, 16-18 Uhr // Pariser Platz (Brandenburger Tor)

Am 14.08.1991, trat Frau Kim Hak Soon (Südkorea) als erste ehemalige „Trostfrau“ in die Öffentlichkeit und brach das Schweigen über die Zwangsprostitution von etwa 200.000 Mädchen und Frauen durch die japanische Armee während des Asien-Pazifik-Krieges (1937-45). Überlebende aus ganz Asien fordern seitdem von der japanischen Regierung eine aufrichtige Entschuldigung, gesetzliche Entschädigung und die geschichtliche Aufarbeitung.

Die koreanisch-japanische Vereinbarung vom 28.12.2015, welche die „Trostfrauen-Frage“ für „endgültig und unwiderruflich“ gelöst erklärte, ist keine Lösung für die Opfer der sexuellen Sklaverei sondern ein Hohn auf sie. Japan lehnt Gespräche mit den anderen betroffenen Ländern strikt ab. Somit wurden die Opfer in anderen Ländern im asiatisch-pazifischen Raum völlig ausgeblendet. Wir fordern eine sofortige Annullierung der Vereinbarung!

Die wenigen Überlebenden des „Trostfrauen“-Systems sind bereits in hohem Alter. Ihnen bleibt kaum mehr Zeit, Gerechtigkeit zu erfahren. Kommt zu unserer Mahnwache! Wir wollen uns mit den „Trostfrauen“ solidarisieren und ihrer gedenken! Gemeinsam wollen wir unsere Stimme gegen sexuelle Gewalt erheben, die auch heute bei bewaffneten Konflikten allgegenwärtig ist.

Japanische Fraueninitiative Berlin
talk.in.japanese.jtib@gmail.com

Performances von:
Kazuma Glen Motomura (Bodypoet)
Mok Jin-hak (Opernsänger im Konzertchor der Deutschen Staatsoper Berlin)
„Arirang“ Tanz von Kaya Tanzgruppe
Lebende Statue

Veranstaltende: AG „Trostfrauen“ im Korea Verband e.V., Courage Kim Hak-soon - Aktionsbündnis zur Aussöhnung im Asien-Pazifik Raum, Deutsch-Japanisches Friedensforum Berlin, Deutsche Ostasienmission (DOAM), Japanische Fraueninitiative Berlin und Koreanische Frauengruppe in Deutschland.

Unterstützende: Amnesty International Japan-Koordinationsgruppe, Deutsch-Chinesische Kooperation in Ausbildung, Wissenschaft und Kultur e.V., Pazifik-Informationsstelle, Stiftung Asienhaus, TERRE DES FEMMES - Menschenrechte für die Frau e.V.

2016年6月1日水曜日

324:三菱マテリアル中国人元強制労働者と遺族への謝罪文原文:安倍晋三内閣の歴史認識に痛打

 本日、北京で長期に渡って交渉が行われていた、第二次世界大戦中の日本国内に強制連行され過酷な労働を強いられ、甚大な被害を受けた事件の日本側事業主である三菱マテリアル社と中国人元強制労働者とその遺族との間で和解が成立し、両者の間で調印が行われました。三菱が歴史事実を明瞭に承認して謝罪し、謝罪金を被害者と遺族に支払い、かつ戒めのため謝罪碑を建設して後の世代に伝える努力をするとするとしたほぼ完璧なものです。

 これについては中国でも→人民日報以下が大きく報道を始めていますが、現時点での最新の写真を中国網から拝借します。
 また時差の関係もあり少し遅れてニューヨークタイムスがかなり詳しく、記者会見を動画を付け、被害者らの生の声を伝えています。
この記事では、下記のわたしのコメントにある昨年の安倍総理の談話の引用まであります。ここにも安倍総理の歴史認識が世界でどう見られているかがよくわかります。

→Mitsubishi Materials Apologizes toChinese World War II Laborers

和解後の記者会見での元中国人労工代表中国網


以下が本日、北京からベルリンのわたしの元へ送られてきた本日署名された和解文書の一部にある三菱側の謝罪条項の原文です。甲とあるのはは中国側、乙は中国側当事者です。
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第1条(謝罪)

  乙は,本件事案につき,以下のとおり謝罪し,甲らは,乙の謝罪を誠意あるものとして受け入れる。



第二次世界大戦中,日本国政府の閣議決定「華人労務者内地移入に関する件」に基づき,約39000人の中国人労働者が日本に強制連行された。弊社の前身である三菱鉱業株式会社及びその下請け会社(三菱鉱業株式会社子会社の下請け会社を含む)は,その一部である3765名の中国人労働者をその事業所に受け入れ,劣悪な条件下で労働を強いた。また,この間,722人という多くの中国人労働者が亡くなられた。本件については,今日に至るまで終局的な解決がなされていない。



『過ちて改めざる,是を過ちという。』 弊社は,このように中国人労働者の皆様の人権が侵害された歴史的事実を率直かつ誠実に認め,痛切なる反省の意を表する。また,中国人労働者の皆様が祖国や家族と遠く離れた異国の地において重大なる苦痛及び損害を被ったことにつき,弊社は当時の使用者としての歴史的責任を認め,中国人労働者及びその遺族の皆様に対し深甚なる謝罪の意を表する。併せて,お亡くなりになった中国人労働者の皆様に対し,深甚なる哀悼の意を表する。



『過去のことを忘れずに,将来の戒めとする。』 弊社は,上記の歴史的事実及び歴史的責任を認め,且つ今後の日中両国の友好的発展への貢献の観点から,本件の終局的・包括的解決のため設立される中国人労働者及びその遺族のための基金に金員を拠出する。また,二度と過去の過ちを繰り返さないために,記念碑の建立に協力し,この事実を次の世代に伝えていくことを約束する。



第2条(生存する元労働者に対する謝罪及び金員の支払い)

  乙は甲らに対して,前条の誠意ある謝罪の証として,本和解合意書の調印後直ちに1人当り10万人民元を乙から甲らの各名義の銀行預金口座に各々振込送金する方法で支払う(支払手続にかかる費用は乙の負担とする。)



(以下略)

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 その他の和解文書の概要は毎日新聞が先ほど現場から報道していますのでご覧ください。
→被害者代表、三菱側の内容評価

日本でも大きく夕刊で報道されていますが、共同通信の夕刊用の配信記事のひとつがこれです。
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2016年6月1日 

 三菱マテリアル、強制連行で和解 中国人3700人以上対象
 【北京=共同】第二次世界大戦中、日本国内の鉱山などで強制連行した労働者を働かせた問題を巡り、中国の被害者団体と三菱マテリアル(東京)は一 日午前、日本企業の戦後補償として過去最多の三千人以上を対象とした和解に合意し、北京で関連文書に署名した。三菱側が「謝罪」の表明と被害者一人当たり 十万元(約百七十万円)を基金方式で支払うのが柱。被害者団体は一日午後、北京で正式発表する。関係者が明らかにした。

 日本の最高裁が賠償請求を認めなかった中国人被害者に対し、民間企業が自主的に謝罪し金銭補償に応じた歴史的合意で、日本企業が絡む他の戦後補償問題の行方にも影響を与えそうだ。

 被害者団体は昨年八月に和解受け入れを表明したが、その後、一部被害者団体が中国で提訴し交渉から離脱したことへの調整や基金の中国側受け皿の選定が難航し、和解案の受諾表明から約十カ月後の署名となった。

 日本政府は一九七二年の日中共同声明で、中国は国家間と同様に個人の賠償請求権も放棄したとの立場。日本の最高裁が二〇〇七年、賠償請求を認めない判断を示した後、中国の被害者団体と三菱側が個別に交渉を進めていた。

 和解合意によると、被害者側の対象者は三千七百六十五人。三菱側は「中国人労働者の人権が侵害された歴史的事実を誠実に認める」とした上で、被害 者と遺族に「痛切な反省」と「深甚なる謝罪」を表明。三菱側は補償金以外に記念碑建立費一億円、行方不明の被害者らの調査費二億円を支払う。

 被害者側の全員を把握できた場合、支払総額は最大七十億円規模となる。

 三菱側と合意した被害者側は「中国人強制連行者聯誼(れんぎ)会」や「中国労工被害者聯席会」など五団体。一四年二月に北京の裁判所に提訴した被害者や遺族計三十七人でつくる別の一団体は昨年二月に和解交渉から離脱した。
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 安倍晋三内閣には痛打である。

わたしのコメントですが、これまで中国人日本国内での強制労働での和解成立は、花岡事件での鹿島建設、広島県安野発電所建設での西松建設との和解と和解事業の実行があり、先鞭をつけてきましたが、今回の三菱の和解対象は、日本国内へ強制連行された中国人犠牲者の約10%にあたる最大のものです。したがって、困難な日中間の歴史認識での和解に大きな影響を与えることは間違いありません。
 
 ところで、中国人の強制連行は、1942年11月の東条内閣により→「華人労務者内地移入ニ関スル件」として閣議決定され実施されたものです。その際、大きな役割を果たしたのが、同内閣で商工大臣であった安倍晋三内閣総理大臣の祖父岸信介あったことは良く知られた史実です。彼は中国人強制労働者らの現場を責任者として何度も視察した事実があります。
 したがって、この和解は祖父の念願を引き継ぎ、平和憲法を改悪することをその最大の政治目的とする安倍晋三内閣にとってはその歴史認識にとって痛打となります。いわば、歴史修正主義の中枢を射た一本の矢といえます。

安倍首相は昨年の敗戦70周年の→内閣総理大臣談話で次のように述べました:


日本では戦後生まれ世代が今や人口八割を超えています戦争には何ら関わりない私たち子や孫そしてそ世代子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません

 安倍氏は「だから謝罪はする必要ないとするのですが、歴史はそんなことは許しません。一例として、上記で紹介したニューヨークタイムス記事が結論で:
Some critics noted Mr. Abe also said that future generations, who had nothing to do with the war, should not “be predestined to apologize.”
 と指摘したとおりです。

 このような謝罪を続ける宿命を今の世代にもたらしたのは他でもない首相の祖父の遺産であるのです。まことに上記謝罪文にあるように「過ちてこれを改めざる、これを過ちという“过而不改,是谓过矣”」ことの典型例が安倍晋三内閣なのです。
  つまりいくら歴史事実を無視しようとしても、それは無駄であり、史実を直視しするところからしか将来は開かれないことのひとつの証明です。
 三菱マテリアルは岸信介らの負の遺産を背にして、日本最大の旧財閥としてようやく自社の歴史を直視することを始めたのです。おそらくこれからもこの件で社内での葛藤は大きいでしょうが、和解を実現した努力と決意は、同社の得難い資産となる可能性があります。
 そのために謝罪碑建立など和解事項内容の実行を中国人被害者とともに実現する努力を期待します。和解はそれによって内実を得るのであって、金銭で買い取って終わるものではありません。すなわち和解事項の実現過程を体験することで、三菱も企業としてのコプライアンスを全うできるのです。その意味で和解事業は今日ようやく歴史的な一歩を踏みだしただけであり、これからが本番です。日本のメディアに、この「和解の本番」をしっかり報道することを期待します。これが非常に重要です。

 またもうひとつだけここで簡単に付け加えておきますが、ドイツの大企業と国家が、官民を挙げて実現した強制労働への謝罪金は、生存者だけを対象としたものであって、遺族は含まれません。日本の場合はこれまでに亡くなった犠牲者の遺族も対象にしており、この点は,ドイツよりも遥かに優れた和解です。これを実現したのは2000年の花岡事件和解ですが、これについては項を代えて紹介したいと思います。
1941年10月東条英機内閣成立 右端が岸信介 写真Wiki

2016年5月25日水曜日

323:オバマ大統領広島訪問に同行予定の日本軍元捕虜ダニエル・クローリー氏の貴重な証言

26日追加:
 昨日わたしが得た情報が、残念ながら事実であったと、今朝NHKが伝えました。
 →オバマ大統領広島訪問 元米兵の同行は見送り
そこにはトンプソン会長の言葉として「この結果に失望している。元アメリカ兵の派遣は和解などの力強いシンボルになると思っていたので、アメリカにとっても日本との同盟関係にとっても損失だ」と批判の言葉があります。
これで、明日の広島訪問はオバマが献花の後でヒバクシャ代表と少し言葉を交わすだけの内実の薄いものとして終わるでしょう。非常に残念です。(以上青字は追加です) 

 本日25日、G7のため日本入りしたオバマ大統領に元米軍の日本軍捕虜団体の代表が広島訪問に同行し、被爆者との面会もあるのではないかとの報道が多くありました。わたしのところには、はたしてそれが実現するかどうかは危ういとの情報も現時点では届いています。
 
 もし実現できなければ大変残念なことです。アメリカ大統領の初の広島訪問という、歴史的な機会に、「原爆投下で命が救われた」という奴隷動労を強いられた元捕虜と、最悪の人道犯罪の犠牲者であるヒバクシャが出会うことは非常に貴重な出来事であるからです。実現すれば,大統領訪問に日米の被害者が共に内実を付け加える真に歴史的な出来事となるであろうからです。またそれは、両者の年齢からしておそらく最後の機会になるかもしれないからです。
 
 実現するか否かはさておき、同行することになっているダニエル・クローリー氏(1922年5月生まれ、現94歳)との二年前のインタヴューがありますので、それを以下紹介します。
 これは、日本軍による連合軍戦争捕虜の実態を調査する→POW研究会という日本の市民団体の一員である ジャーナリストの 西里扶甬子(にしざとふきゆこ)氏が2014年の5月に当時92歳のクローリー氏にカルフォルニアで行ったインタヴューのご自身による翻訳の全文です。
  なぜアメリカでは「原爆投下が多くの人命を救った」という世論が強いのかを知る上でも、日本ではほぼ無視され続けている、いまだに悪夢にうなされるクローリー氏の体験証言は日本の歴史としても重要です。史実を知り解釈をする上での資料として貴重であると考え、読者のみなさまにお伝えします。

 原文はPOW研究会では資料として知られていますが、一般公開はこれまでなされていないとのことですので、西里氏の了承を得て以下紹介させていただきます。したがって、このインタヴュー報告の全文の許可のない転送はしないで下さい。一部を引用しての紹介は歓迎しますが、必ず引用元を明記してください。

以下インタヴュー翻訳全文:
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           Interview 
   Daniel Crowley(ダニエル・クローリー) 92歳 
ADBCAmerican Defenders of Bataan & Corregidor=米軍バターン・コレギドール防衛隊戦友会)メンバー

DanKelly Crowley at ADBC Annual Convention in San Jose,
California May 2014


 米軍が日本軍に降伏


私は194249日バターン半島で日本軍に降伏したエドワード・キング将軍の指揮下にあった。私を含む数百人は降伏を拒否してコレギドール島を目指した。日本軍は降伏した米軍の対応に忙しいと分かっていたので、夜になるのを待って、死体の浮かぶ海を泳いだ。私は幸いなことに民間のライフボートの脇に隠れて泳いだ。

コレギドール島についてから、海兵隊第4連隊に加わった。私はもともと陸軍航空隊所属だったが、194112月のマニラ空襲の時点で、すべての航空機は日本軍の爆撃で破壊されてしまったので、歩兵に編入させられた。我々は歩兵としては全く何の訓練も受けていない、操縦士、整備士、修理工、コック、事務職などの集まりだったが、すぐに歩兵として働けるようになった。そして、194256日ジョナサン・ウェインライト将軍が再度降伏した時、それに従った。

コレギドール島からカバナツァン捕虜収容所までの「死の行進」

故にバターンデスマーチは体験しなかったが、別のデスマーチを体験する羽目になった。
それはコレギドール島から始まった。およそ12000人ほどが2.5エーカー(約10平方m)の農場内の土地に押し込まれた。水道は一個しかなく、食料も無かった。日中はさえぎるものなく陽にさらされ、気温はゆうに摂氏60度にも達しようかという暑さだった。
その状態が約3週間続き、地面は人間の排泄物に覆われた状態だった。

 それから小さな船に載せられ、マニラまで輸送された。そこで並ばされ、日本軍の将校が剣を抜いて護衛する中、マニラ市内まで行進させられた。沿道にはフィリピンの人たちが並んで眺めていた。フィリピンにおいては、もはやアメリカ人ではなく日本人が頂点にあるのだということを誇示するための見せしめの行進だった。
 
 弱りきった我々に水や食べ物を渡そうとしたフィリピンの人々は、残酷に殴られたり、殺されたりした。長い距離を行進させられてから、今度は貨車に押し込められた。この貨車では座ったり、横になったりするスペースはなくて、立ったままで立錐の余地もないという状態だったから、また床は人間の排泄物に覆われてしまった。
 全体で何人くらいだったのか全くわからないが、酷い暑さと湿気で窒息状態だったから、かなりの人数が死んだと思う。

 到着したところから、カバナツァンの捕虜収容所まで歩かされた。その後、この収容所ではおよそ3000人が死んだ。水や食料、医療の欠如の結果殺されたという表現の方があったっているだろう。その中には100人のウェストポイント陸軍士官学校の出身者が居た。一ヶ所でそれほどの人数の陸軍士官学校出の将校が死んだというのは歴史上初めてのことだった。
 
 カバナツァンからパラワン島へ


カバナツァン・キャンプから私は数100人の仲間と共にパラワンのジャングルに飛行場をつくる仕事のために送り出された。すべては手仕事だった。木を切り倒し、根を掘り返し、珊瑚の岩を掘り返して、手押し車に載せて34キロ先まで運んだ。肉体労働としては想像できる範囲のもっとも過酷なものだった。

私はセメントの粉にまみれて地中にセメントを流し込む仕事を担当した。皮膚についたセメントは汗でぬれやがて固まって、体中セメントのかさぶたで覆われていた。顔は目だけが窪んでいるというような状態だった。一日の仕事を終え、船でもどると、人を刺すクラゲのいる海に入って、セメントを洗い流した。

何日間その仕事をやったのかは忘れたが、飛行場の地盤にセメントを流し込む仕事を終えると、次には滑走路の表面を舗装するセメントに水を加えて混ぜる仕事に回された。そこではセメントと砂を混ぜる割合を指示通りやらずにサボタージュを試みた。滑走路の表面はそれによって意図されたよりはずっと弱いものになったはずだ。しかし、看守兵たちは田舎の出身らしく、セメントというものを見たことがないようで、我々がやっていることには全く気づかなかった。
 
 とうとう飛行場が完成して司令官の岸本大佐は何も気づかずに我々を「大日本帝国」に「忠実な戦士」と呼んだ。司令官機が完成したばかりの飛行場を初めて飛び立った日、その旧式の飛行機は機首が上向きになると、機尾が滑走路の表面を削る羽目になった。それでもそれが、我々のサボタージュのせいだとは気がつかなかった。米軍海兵隊がついにパラワン島に進攻した時、彼等は結局この飛行場を使用するにはスチールの板を滑走路の上に敷かねばならなかった。

 日本兵に肩の骨を折られて命拾い―地獄船で日本へ


 監視兵の扱いは酷いものだった。彼等は一人で10人の捕虜を担当していた。例えば私達の担当の監視兵は吸いかけの煙草の吸い口をベロベロなめて唾をつけ、我々10人が輪になっている真ん中に捨てたりして、それに10人が群がるのを見て喜んでいた。
 
 また、どこにも逃げようのない場所だったが、ちゃんと働かないと棒で叩かれた。ある日私は余りにも酷く叩きのめされて、地面に倒れた。そこをさらに叩こうとして棒を振り上げていたが、別の監視兵が止めた。私はそこで叩き殺されていたかもしれないが、止めた監視兵は私を死体にするより、生かした方が価値があると思ったのかも知れない。

 棒で酷く叩かれたことで私の肩の骨は折れてしまった。米軍の軍医が私は空港建設の労働力としてはもう使いものにならないとの診断を下した。もう一人、仲間が間違って鉄の棒を振り下ろしてしまったために腕の骨を砕かれてしまった捕虜と一緒に小さなボートで、マニラに戻された。
 日本軍の軍医に診療して貰ったが、私の場合は骨折なのでなおったらまたパラワンに戻れと言われるのではないかと恐れたが、驚いたことにこの軍医はカリフォルニアの大学で医学を勉強したということで英語を話した。私は便所で転んで肩の骨を折ったといい続けていたので、頭がおかしくなったと思われていたが、この軍医は「お前は賢い」と言っただけだった。

 私は一度カバナツァンに戻されそれから、マニラ港から日本行きの地獄船(Hell Ship)に載せられて、19443月に日本に着いた。時期的にはアメリカ軍が日本のあらゆる船を爆撃して沈めてしまう作戦に出る寸前だったので、マニラから出たほとんど最後の船だったと思う。この地獄船の名前はと聞かれても思い出せないが、我々は「便所丸」と呼んでいた。他の地獄船(捕虜輸送船)も同じようなものだったとは思うが、私達はこの「便所丸」のデッキから3、4階下の船底に押し込まれた。立つこともできない、横になることもできない、うずくまっている他ないというような場所だった。外光はまったく入らなくて真っ暗だった。真ん中に穴があって、食料は綱で吊り下げられ、死体はそこから吊り上げられた。
パラワンの虐殺事件はこの年の12月だったから、肩の骨を折られたお陰で焼き殺されずに済んだということだ。

足尾銅山での奴隷労働
 
 日本のどの港に着いたのかは全くわからないが、最初の日立の銅山の近くだったと思う。日立で数ヶ月働かされた後、列車に載せられて、足尾の銅山に着いた。我々は5600人だったと思う。我々の木造の宿舎は郊外の川の傍にあった。

 毎朝縦坑まで行進して、バケツ状のエレベーターで600mの地底に下りて働いた。このシャフトは岩がむき出しになった縦穴で、一度に25人が詰め込まれた。縁は腰のあたりまでしかない。このエレベーターはスチームエンジンで巻き上げ機を動かして鉄製のケーブルを操作することで上下しているのだが、このレバーを操作している運転手は、毎回地底から130mくらいのところまで急降下させると、急ブレーキをかけて我々25人が乗ってるバケツを止め、それから激しく上下に揺する遊びをしたもんだ。この銅山は始業が16世紀ということで、何もかにもみんな古い。バネもケーブルもみんな錆びているのは分かりきったことだからそのたびにハラハラするわけだ。

 鉱道も元々我々と比べれば小柄な日本人用にできているから、背筋を伸ばせなくてしんどかった。経営者の古河(鉱業)は、米軍捕虜の奴隷労働者の安全などほとんど気にかけていなかったのだと思う。

私は一度、ダイナマイトの専門家と一緒に働いたことがあった。我々捕虜があけた穴に火薬をしこむと、彼が煙草で火をつける。彼は自分が合図するまで逃げなくていいと言って、煙草を落とすと一緒に鉱道の陰まで走った。数秒で爆発音が聞こえ、煙が流れてきた。

 我々は日本人の監督に率いられた、朝鮮人とインドネシア人(蘭印軍捕虜)の奴隷労働者と一緒に働かされた。監督は民間人で、親切にしてくれた。時には自分の弁当を分けてくれたりした。ゆっくり休憩しろ、ただし、憲兵が見回りに来たら素早く働いているふりをするようにとも言ってくれた。

 他には坑道の補強のために必要な木材を運ぶ仕事をさせられた。長い木材を背中に背負ってシャフトの壁の梯子を上って、上まで着いたところで、一人では上がりきれないので、日本人の坑夫に木材をまずあげて貰ってそれから自分が上がるということになっているのだが、彼等は時に我々をからかって、木材を動かしたりして、なかなかあげてくれない。それは真っ暗な中なのでひどく怖い。

 今でも見る悪夢


 パラワンでの過酷な労働と監視兵の残酷な仕打ち、そしてこの足尾銅山でのダイナマイト爆発と暗闇の中で重い材木を背中に背負ったままシャフトから上がれずに恐怖に焦る場面は悪夢によく出てくる。今でも捕虜時代の悪夢を見る。妻に聞けばよく分かるが、私は
悪夢を見ると眠ったまま、足をバタバタさせるそうだ。
 
 食料の配給量は極めて貧弱だった。何とか命をつなぎとめる程度の量だった。大体一日700kcal程度の食料しか与えられていなかった。我々が強制された労働からして4000kcal
程度は必要だったと思う。そのような貧弱な食事を続けていると、体脂肪も筋肉も消費するだけで失われてゆく。体はどんどん縮んで行く。どうして、あのような状態で生き延びることができたのか、それは謎といってもいい。
 42ヶ月の間、あのような状況で生き延びることができたのは、奇跡といってもいい。多分彼等の仕打ちに対する燃えるような憎しみ、いつか国に帰って彼等に対価を払わせてやるという決意というようなものが我々を生かしてくれたのだと思う。彼等は私が知る限りにおいて、最も残虐な人間たちだった。我々が人間ではなく、虫けらのように扱われ、命さえおろそかにされたことは、日本政府にも責任があったと思う。日本軍は兵隊を教育するとき、「中国人を人間と思うな、丸太と思って殺せ」と教えたと聞いているが、我々も全く同じように扱われた。死因としては、餓死、病死、そして生きる意志を失うことだ。

 終戦と帰国

戦争が終わった日のことはよく覚えている。その日は朝から仕事にでなくてよいと言われ、昼に天皇のラジオ放送があった。我々は何を言っているのかわからなかったが、英語も日本語もできる太った中国人の料理人がいて、終戦になったことを教えてくれた。

監視兵などの正規軍はいつの間にかいなくなって、ボーイスカウトが軍服を着たような少年兵がやってきた。外に出ると、敗戦でやけになった過激な連中に危害を加えられるかもしれないと言われて外出しないようにしていた。米軍が食料をふんだんにバラシュートで投下してくれたので、食べまくった。収容所にいた少年兵たちにも分けてやった。

我々が脱出する列車が来たのが94日で、それまでの間に我々は食べて食べてすっかり太ってしまった。横浜で米軍の軍医に診察を受けた時には軍医も驚いていた。列車で横浜まで来る間に駅に止まるたびに、日本の子供たちにキャンディを渡してやった。
横浜では消毒のスプレーをかけられ、新しい軍服を支給されて厚木まで車で移動し、即日マニラまで飛んだ。マッカサー将軍は、我々捕虜は日本軍から酷い扱いを受けたことに
怒っていたので、何か騒動が起こることを恐れていたのだと思う。
 
 マニラから遅い船で帰国したが、最初の年に多くの元捕虜たちが死んだ。長い間飢餓状態におかれた人間の医療という意味では、アメリカの医者たちは全く経験がなかったので、どうしていいかわからなかったのだと思う。
 
 我々は一日50銭と書かれた軍票で支払いを受けていたが、これで買えるものなど何も無かった。終戦と共にこれは紙くずになってしまった、「便所ペーパー」の役にも立たない。あの過酷な奴隷労働の対価をいつか払って貰おうとそれだけを思いつめてこの70年を生きてきた。しかし、憎しみが私を92歳まで生かしたとは思わない。人生を楽しもうとしてきたことが良かったと思う。66年間連れ添った前妻が死ぬ前に「自分が死んだら、若くて素敵な女性を見つけて結婚しなさい」と遺言した通り、私は若く素晴らしい女性に会うことができた。生きていることを楽しんでいる。

  原爆について

原爆は私の命を救っただけでなく、恐らく2000万から3000万人の日本本土の日本人の命を救ったと思う。もし戦いを続けていれば、その位の日本人が死ぬことになっていたと思う。その上恐らく200万人の英、米、豪などの連合軍国民が死なずに済んだと私は思っている。日本軍のやり方からして、日本軍は中国、朝鮮半島、東南アジア、インドネシア、フィリピンなどで無数の殺戮を続けていただろう。

日本軍は占領した各地の指令官に対して「恐怖による支配」を指令していた。「強姦」はその手段の中でも占領地の住民を震えあがらせ、屈服させる最も有効なものとみなされていた。砲弾は貴重だから使うまでのことはない。「恐怖」で征服すればよいという考えだった。捕虜の殺し方だってリストアップして、各地の収容所に送られていた。どれでも好きな方法を選べという訳だ。

原爆は非戦闘員を大量殺戮するという残酷な兵器ではあるが、とにかく戦争を早く終わらせる必要があった。日本の指導者は日本は軍事的にはすでに敗北していることを認めようとせず、戦争を長引かせていた。指導者は何とか自分達が食べる食料はあって、比較的安全な場所に身を置いて戦争を指揮できるならば、何が何でも戦争を続けようとしていた。しかし原爆によって、もう彼らの安全を確保できる場所はどこにもないということに、初めて気づかされた。だから、とりあえず、一時的に降伏して、折をみて復活するのだという考えを持った。そして、事実そういう軍国主義者たちが、今の日本を牛耳っている。我々は優秀だから再び表舞台に出現するのだという訳だ。嘆かわしいことだ。

(インタビュウ&翻訳;西里扶甬子201461日 ハイアット・プレイス・サンノゼ・ホテルにて) 

2016年5月24日火曜日

322:オバマ大統領の鼎の軽重を問うアメリカの良心たちの書簡:ヒバクシャとの面会と謝罪を求める

 日本の本日夕刊でも伝えられているように、昨日(23日)付けで、アメリカの74人の著名な知識人や文化人が連名で27日のオバマ大統領のに対し、広島訪問ではヒバクシャたちと直接面会して彼らの体験と思いに接し、謝罪と原爆投下に関する歴史議論を再考し、プラハで約束した核軍縮に努力するように促しました。

英文原文はこちらです:

→Urge Obama to meet Hibakusha, TakeFurther Steps on Nuclear Disarmament

  これに関するプレスリリースと書簡の日本語への翻訳はこちらです読むことができます:
→Peace Philosophy Centre

 この書簡のはじめにノーム・チョムスキーやオリバー・ストーンたちの、自らのヒロシマ訪問とヒバクシャのとの出会いが「深淵で人生が変わるような体験であった/a profound, life-changing experience」と述べています。まさにアメリカの良心の願いといえましょう。
 
 これは前回報告した→日本からの声にも呼応するものですが、オバマ大統領の核軍縮への意志がどれほど強固なものであるのかが、広島での彼の行動で試されることになります。すなわち、彼のアメリカ大統領としての鼎の軽重が問われているのです。

日本からの報道によれば、当日は慰霊碑の献花の場にヒバクシャも参加することで調整中とのことですが、メーッセージを読み上げるだけで彼らの話しも聴かないようなことにでもなれば、失望も大きく、またしてもヒバクシャを利用したと厳しく批判されるだけです。

 27日にヒバクシャに面会もせず、謝罪もしないで終われば、ドイツの新聞がすでに→論評でそれを予見したように世界は最終的に大統領としての彼に失望するでしょう。

2016年5月23日月曜日

321:オバマ「広島で謝罪はしない。それは歴史家の仕事」。歴史家の検証結果は謝罪要求である。

 前回はオバマ大統領の広島訪問を前にした、原爆投下を巡る日米の歴史認識の矛盾を指摘した→「南ドイツ新聞」の論評を照会しました。
 
 そこに今朝(23日)NHKが訪問を前にしたオバマ大統領との単独インタヴーに関して→特設欄で「ヒロシマからオバマ大統領へ」として伝えています。ヒロシマの声を彼に伝えようとするものです。ここで見られる4名の方の証言の中で、89歳の阿部静子さんのお話はぜひご覧ください。71年後の憎しみを越えた思いが語られています。
 そして大統領との→単独インタヴューのビデオと邦訳全文も特設で報じています。

そのなかで、以下の質疑応答が見られます。一部引用します(強調は筆者)。

Q3
広島訪問とい大統領歴史的な決断を歓迎しますなぜ今回広島に行こと決めたですか訪問目的は何ですか
A3

大統領任期があと僅かとなるなか戦争本質をじっくりと考えるよい機会になると思いました目的は単に過去を振り返るではなくない 人々が戦争犠牲になったこと世界中で平和と対話を進めるためにできるかぎりことをすべきだといことわれわれは引き続き、『核兵器ない世界 を追い求めて努力すべきだといことを訴えることですそれは私が大統領に就任して以来ずっと取り組んできたことです

Q8
メッセージに謝罪は含まれますか
A8
含まれません戦争さなかに指導者はあらゆる決定を下すといことを忘れてはなりま せんそれについて疑問を呈し検証するは歴史家仕事です7年半同じ立場に身を置いた者としてどんな指導者でもとりわけ戦争ときに 極めて難しい判断を迫られることを知っていますですから私は今回すればわれわれは前に進むことができるかについて強調すると思います 時に先ほど述べたよ人々が戦争でひどく苦しんだとい事実を強調し平和と外交を重視するかたちで人間らしい対応と制度を進化させていく必要が あるといことを強調したいと思います

 わたしはオバマ氏の就任直後の核廃絶を唱えるプラハ演説以来、その意図に期待もし、また注目してきました。それによってノーベル平和賞を得ながらも残念ながら、彼は就任期間中核廃絶へ一歩すら前進できませんでした。広島訪問はその点で彼の「失望を秘めたもの」にならざるをえません。現役大統領が被爆地を初めて訪問するという以上の意味は持たないでしょう。「南ドイツ新聞」も主張するように、せめてヒバクシャの声を直接聴くことぐらいは期待したいのですが。

 さて本題ですが、インタヴューでオバマ氏は広島で予定されているメッセージに「謝罪は含まれるか」との問いに、「含まれない。それに疑問を呈し、検証するのは歴史家の仕事である」と答えました。政治家が言い逃れをする時にしばしば「専門家に任せましょう」というのは良くあることですが、これは核兵器使用国の大統領の重大な発言です。

 そこで、ここに歴史家のひとつの「疑問と検証」である今月10日のアピールがあります。わたしも賛同しました。
英文もあり、ホワイトハウスにも届けられています。ひょっとしたらオバマ氏もこれを読んでいるかもしれませんし、それを踏まえての発言となったのかもしれません。
そのアピールはこれです:→オバマ大統領と安倍首相への謝罪要求アピール
英文はこれです:


このアピールは「南ドイツ新聞」が指摘した「日米の歴史の嘘と神話」を指摘した上で謝罪を要求し、憲法9条の信念に基づき「謝罪なき訪問」を次のように厳しく批判しています:


日本の植民地主義、軍国主義、米国の核戦争を経て、憲法第九条は、国家の非武装、軍事力によらない平和という絶対平和主義の思想、 すなわち「いかなる理由によっても人間には人間を殺す権利はないし、誰も殺されてはならない」という信念が具現化されたものです。「原爆・焼夷弾無差別大 量殺戮」も「日本軍残虐行為」も、まさしくこの絶対平和主義という普遍原理にあからさまに乖背する非人道的で破壊的な暴力行為です。これらに対する「責任」も認めず「謝罪」もしないまま、核兵器を保有し続け軍事力を増大させながら、「核のない世界」や「安全平和なアジア」の構築だけを表面的、形式的にだ け唱えることは、単に欺瞞行為であるだけではなく、憲法第九条の精神=人類の普遍原理を空洞化する、「人道に対する反逆行為」です。

Article 9 was established as a result of experiences of and reflections upon colonialism, militarism and nuclear destruction. Its fundamental philosophy is that “no one has the right to kill another person whatever the reason may be, and no one should be killed for any reason.” Both the indiscriminate mass killing by the atomic bombing and the Japanese wartime atrocities were brutal and destructive violence, which clearly violated the universal principle of the spirit of Article 9. Indeed, it could be said that the perfunctory call for “a world without nuclear weapons” or “the establishment of a peaceful Asia” without acknowledging responsibility for the above atrocities is not simply a sham, but also a betrayal of humanity and contradictory to the spirit of Article 9.      
 
 さて このアピールの発起人の一人である歴史家で広島市立大学平和研究所教授の田中利幸氏が、先日18日に東京の外国人記者協会で記者会見を行っています。英語ですがその全部が以下で視聴できます。

これを見ると、南ドイツ新聞が論評で「歴史家たちはこの両方の神話を論破している」と書いた根拠がここにありそうです。ナイドハルト記者も東京特派員としてどうやらこの記者会見に出席していたようです。オバマ大統領の広島訪問について彼がどう報告するかも注目しています。