2012年4月27日金曜日

90;無人の桜考:「むかし東方に国ありき・・」補記・チェルノブイリ26年の覚え書き

この写真は、つい最近の4月10日、わたしの住むベルリンの街中にある公園のソメイヨシノが満開になったときのものです。
例年になく寒い春でしたが、緯度でサハリンの中部にあたるここ北国でも、保護された環境の中では日本の桜はこのように樹は小さくとも、実にコケットに爛漫の姿で人を魅せるのです。
  

日本人は古くから満開の桜を愛でてこのように詠ってきました。

ねかはくは 花のしたにて 春しなん そのきさらきの もちつきのころ 
西行(山家集)

  本日4月26日はチェルノブイリ事故から26年になります。この事故も当初から、情報が極端に少なく次第に明らかになる恐るべき実態に、わたしもまだ幼かった子どもたちを抱えて、震撼し狼狽しました。1500キロメートルほど離れたベルリンも、南部のバイエルン州ほどでないにしてもかなり放射線で汚染しました。現在でもドイツの森の汚染は続いており、イノシシやシカのセシウム値はしばしば基準値を超えています。

以下のコラムはフクシマ事故から一年を経た先月執筆し、「図書新聞」今週号に掲載されているもので、→同紙のブログでも読めるものです。
そこでチェルノブイリ事故の日の今日、桜をテーマにしていくつか写真を加えて再録し、続いて補記しましょう。
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 「むかし東方に国ありき……」

――フクシマは罪のない子どもたちを犠牲にしてヒロシマ・ナガサキの原点に日本社会を引き戻している
梶村太一郎「図書新聞」No.3060 ・ 2012年04月28日号掲載

一九四五年八月の敗戦からしばらくして、当時上海にいた武田泰淳は、広島・長崎への原爆投下による放射能拡散で日本人が死に絶えつつあるとの報道に衝撃 を受けた。そこで海外で生き延びた日本人としてできることは、日本という国があったことを語り伝えることだと決意し、「むかし東方に国ありき……」で始ま る長編詩を書き、堀田善衞たちに読み聞かせたという。
これについて堀田は「非常にパセティックな良い詩だったが、詩稿は失われ、その最初の一行しか覚えていないのは実に残念だ」と書いている。
昨年の三月十一日の原発震災の後、わたしは遠くベルリンから、この逸話を何度も思い出したものだ。

地震発生はこちらでは朝の七時前であったが、地震と津波の凄まじい映像を横目に親族友人の安否を確認するうち、福島原発の電源喪失の情報が伝 わってきた。東京の原子力資料情報室が、ホームページで首相官邸の一次情報をもとに、一号炉の格納容器のベントを検討しているとの通報を掲載したのは日本 時間の一二日未明のことだった。過酷事故は不可避のようである。そこで多数の知人たちに「子どもの被曝は悲惨だから幼児と母親は関西方面へ避難する準備を 勧める」とのメールを送った。これが一二日午前三時。それから一二時間後に起こった最初の水素爆発の映像を見ながら、不意に思い出したのがこの失われた詩 の一行であった。

実は、その一一ヶ月前の二〇一〇年四月の初めのこと、久しぶりに訪日したわたしは京都の嵐山で花見をしている。京阪神で育ったわたしは、ナトリ ウム漏れ事故で一五年も停止していた「高速増殖炉もんじゅ」がその頃から再稼働する予定になっていたので、嵐山の桜を見納めたいと思ったからだ。
京都嵐山の桜 2010年4月10日
  福井県敦賀にある、プルトニウム燃料をナトリウムで制御するこの原子炉は、通常のウラン燃料の軽水炉とは危険度が根本的に異なる。いったん過酷事故がおこれば制御は不可能で、少なくとも本州の大半が間違いなく壊滅し、人類史上未曾有の惨禍となる。
この原子炉のモデルとなったドイツのカルカー高速増殖原型炉(SRN―300)は、ナトリウム循環試験の段階で事故が重なり、あまりにも高い危険性のため、政治判断で核燃料装荷以前の一九九一年に放棄された。

この過程を知っているわたしは、当時から「もんじゅでもナトリウム火災は絶対に起こる」と警告してきた。ジャーナリストとして「絶対」との表現 は禁句だがあえて強調した。警告は九五年末の事故で的中した。幸い二次冷却系の温度計破損による少量のナトリウム漏れであったため、放射能漏れには至らな かった。本来ならばこれで廃炉にされるべきであったが、懲りもせず膨大な国家予算を投入して再稼働させるという。世界中の核大国がすべて放棄している現実 も無視している。

「日本は狂っている。滅びてもしかたがない」と確信した。この意を酌んだ友人たち、原発差し止め訴訟で闘いを続けている大勢の弁護士たちが、ありがたいことに嵐山の花見に誘ってくれたのである。

同。ちょうど満開で、それは見事なものでした。
この一日、嵐山の桜を堪能したあとでは、事故により無人となった嵐山に爛漫と咲く桜がわたしにとって明日の光景となった。
 それから一年後、この光景は福島県双葉町の桜並木で現実となった。今年もフクシマの桜はセシウムをたっぷり吸って、怒り狂い咲くであろう。


見事に咲き誇るサクラ=福島県富岡町で2012年4月19日武市公孝撮影。
翌日の→毎日新聞より借用しました。





さて、メールにあるように、電源喪失時点から、わたしにとっては関東一帯が高濃度汚染する「最悪のシナリオ」は、自明のことであった。これをまぬが れたのは、当時の風向きと、菅直人首相が東電の現場からの逃亡を防いだからにすぎない。不幸中の幸いであったのはこの二つのファクトだけであり、他の危機 管理は最悪であった。

ドイツ語に「参謀本部方式」という言葉がある。語源はプロイセンの軍事用語だが、意味は「作戦にあたっては最悪の事態を想定し綿密な準備を整え ておくこと」である。事故発生と同時にドイツ外務省が、自国留学生と在留ドイツ人家族に帰国あるいは関西方面への避難を勧告し、大使館を大阪に移し、関西 空港に大使館窓口を開設、ルフトハンザの特別便を飛ばしたことなどがその現れであった。
わたしといえば、友人と親族の子どもと母親を受け入れる準備を始めた。ドイツ人の友人から家一軒を提供するし、夜中でも飛行場に迎えに行くとの 申し出もあった。このようなドイツ市民の気持ちが身にしみると同時に、祖国を失った亡命者の悲哀とはこのようなものかと初めて実感したものだ。

一年後の今でも、危機管理の準備は遅々としており、全国の原発で明日にでも最悪の事態は起こりえるし、フクシマでの被曝は徐々に増え続けてお り、子どもたちに多様な疾病が広がるのはもはや避けられない。これが「過ちは繰り返しません」と誓ったはずの日本の現実である。フクシマは罪のない子ども たちを犠牲にしてヒロシマ・ナガサキの原点に日本社会を引き戻している。
 それを野田佳彦首相は、事故の責任について「誰の責任というよりも、責任は共有しなければいけない」などと語っている。政治家を筆頭に、原子力村のこのような一億総懺悔で責任をごまかす敗戦以来の厚顔無恥が、事故に至った根本原因である。

かつてブレヒトは亡命先のアメリカで日本への原爆投下を知り、『ガリレイの生涯』を書き直し、「真実を知らないのは、単なる馬鹿者だが、知って おりながら、それを嘘だと言う者は罪人だ」と記した。最悪のシナリオを知りながら隠す犯罪者と、彼らの責任を引き受ける馬鹿者たちの国は滅びる。市民が犯 罪者たちを罰して、刑務所に放り込むまでは、「むかし東方に国ありき」となる懸念は決して去りはしない。
メルケル首相がフクシマの映像を見て、脱原発へ豹変した本当の理由は、だまされない主権者の怒りと罰を恐れたからである。政権維持の見事なアクロバットであった。
(在ベルリンジャーナリスト)

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以上が最近の「図書新聞」への寄稿文ですが、長期的なエネルギー戦略も提示できず、高度汚染地域に子どもたちを放置し、ガレキ処理で放射能汚染を全国に振り撒き、原発再稼働を強行しようとする日本政府への怒りはいよいよ募るばかりです。
 フクシマの事故は収束どころか、悪化し続けている事実認識を欠落させて、世界中から呆れられている政治家たちに対しては絶望しかありません。せめて野田首相にメルケル首相の鼻くそでも煎じて飲ましたいですが、彼らにはもはやつけるクスリもないでしょう。退場してもらうだけです。

希望はかならずあります
このように、政治が絶望的な時期に希望が持てるのは唯一市民の動きだけです。この写真は昨年のヒロシマ忌に際しての報告で少しふれました、ちょうど一年前のベルリンで開催された核戦争防止国際医師会議(IPPNW)の→チェルノブイリ25周年の国際会議でのものです。
Valentina Smolnikova, Georg Tietzen,9.April 2011 Berlin
この大きな会議で市民運動の報告のセクションに参加されたお二人です。
左は、ヴァレンチーナ・スモルニコヴァさんで、ベラルーシの小児科の医師です。右はゲオルグ・ティートツェンさんでドイツのドレスデンの「チェルノブイリの子どもたち」の代表です。
このお二人は、ベルリンの壁が崩壊した直後から、チェルノブイリの子どもたちの治療と保養を続けておられるので、日本でもご存知の方はいるでしょう。
 朝日新聞が、わたしの情報で日本で初めてドイツでの子どもたちの保養について報道したのは、確か1990年の春のことです。そのころから、スモルニコヴァ医師たちの努力で、西ヨーロッパと日本に治療と保養に出かけた子どもたちは4600人にもなるそうです。会議では、このプロジェクトが子どもたちにどんなに肉体的、精神的にも有効であるかを詳しく報告されました。
わたしも、日本の市民運動の皆さんのお供で、二度ほどベラルーシに日本で保養した子どもたちを訪ねたことがありますので、効果は知っています。その素晴らしさは体験した者しか得られない豊かなものです。

会議後お話を聴きますと、スモルニコヴァ医師は札幌の→「チェルノブイリへのかけはし」の招待で日本を訪ねた経験を語られました。
そこでフクシマ事故への体験を聴きますと、「日本に行ったことのある子どもたちと、数日間テレビなどの報道にくぎづけになり 本当に心配しました」とのことです。
「日本の友人への伝言は?」との問いには、しばらく考えてから「どんなに苦しくても絶望してはいけません。希望はかならずあります」との返事がありました。
一年後の伝言ですから、日本の友人たちにはとっくにこの彼女の言葉は直接届いているでしょう。そこでここではチェルノブイリの子どもたちの救援にかかわった多くのすべての日本人への言葉としてお伝えします。
わたしも、怒りと絶望感に襲われたときには、想像を絶するような惨禍(注)のなかで希望を求め続けていらっしゃる体験に裏付けられたスモルニコヴァ医師のこの言葉を思い出しています。

 NGO「かけはし」が1991年から19年間に受け入れた子どもたちは648名にもなるそうです。フクシマ事故後はフクシマからの保養の受け入れにとりかかっているとのことです。素晴らしい希望がそこから育ってくるでしょう。

(27日補注;チェルノブイリ26年にさいして、写真家集団MAGNUMのベラルーシの子どもたちの悲惨な記録写真30枚ほどを→The Nation誌が昨日公開しています。
解説でローラ・フランダース記者は;
Twenty-six years after the meltdown at Chernobyl, the legacy of the 1986 explosion lives 
チェルノブイリのメルトダウンから26年後、1986年の爆発の遺産は生きている
と記しています。
これがスモルニコヴァ医師たちが現在も直面している事実なのです。ソースは本日の→大沼安史さんブログです。大沼さんに感謝して補記します。)

 無人の桜の樹の下には・・・
 ところで、わたしの懸念した予言が事実となり、ここ数日、フクシマからの→無人の桜の光景の画像や映像を見ながら、冒頭に挙げた西行のような和歌も、日本ではとうとう過去の夢になってしまったなどと考えながら、ふと思い浮かんだのがやはり桜に関する有名な作品の冒頭の言葉です:

桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。

梶井基次郎「桜の樹の下には」

というのは、4月23日に下記のアメリカの邦字紙→US Front Line Dailyが伝えた共同通信の記事と、4月24日の→琉球新報の社説を読んだからです。これは、前回お伝えしたように先日正式に発足した「市民と科学者の内部被曝研究会」の高橋博子さんの研究に関するものです。
そして、フクシマ後の今は、梶井の言葉をこのように言い換えねばならないと考えるのです。

無人の桜の樹の下には被爆者の赤ちゃんの魂が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。


もうひとつだけ、関連でここで付け加えねばならない史実があります。今年の4月26日はスペインではゲルニカ空襲75周年記念の日であり、犠牲者を悼む行事が行われ、それがドイツでも報道されています。1937年のこの日、ドイツ空軍は国際法を無視し、歴史上初めての戦略爆撃を行いました。
同年の7月7日は盧溝橋から日中戦争が本格化し、翌年末から日本軍は重慶爆撃を始め、それがヒロシマ・ナガサキへの核兵器による戦略爆撃に終わったことはよく知られています。
あまり知られていないことは、ゲルニカ空襲の60周年の1997年、スペインを訪問したドイツのヘルツォーグ大統領が、初めて国際法違反の戦争犯罪として謝罪し、翌年にはドイツ連邦議会も謝罪決議を行っていることです。
日本が重慶爆撃で国家責任を公式に謝罪したことはありません。

このように考えると、中国人ならば:

日本の無人の桜の樹の下には重慶の市民の屍体も埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。


と思うのではないでしょうか。

以上を読者のみなさまとともに考えるため、また保存のため二つの記事を全文引用しておきますのでお読みください;
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US Front Line Daily

           更新2012年04月23日 18:51米国東部時間
1200人を研究利用、被爆者の赤ちゃん~遺伝影響調査で米
 
広島と長崎への原爆投下の数年後に、被爆者の 親から死産したり、生後すぐ亡くなったりした赤ちゃんのうち、臓器標本やカルテが米国に送られ放射線研究に利用された人数が1200人以上に上ることが 21日、分かった。米国は戦後間もない時期から原爆の放射線による遺伝的影響の調査に着手。占領期に被爆者や新生児の標本が日本から米国に渡ったことは明 らかになっていたが、具体的な規模は軍事情報とされ不明だった。

広島市立大広島平和研究所の高橋博子講師が米軍病理学研究所(AFIP)の内部文書で確認した。近く発表する。高橋講師は「核兵器や放射線研究のために、新生児がモルモット扱いされたと言える。今の放射線の基準は、その上に成り立っている」と話している。

高橋講師によると、新生児の調査は1948~54年に約7万7000人を対象に実施。AFIPのエルバート・デカーシー所長は51年2月、日本で原爆の影響を調査していた米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)への書簡で、新生児の固定標本を送るよう求めた。

ABCCのグラント・テーラー所長は同年4月、「何百ものホルマリン標本を2カ月の間に送る」とデカー シー所長に返答。同年にABCCは死産だった新生児の臓器標本など身体の一部177点を送付した。52~53年に同様に672点と817人のカルテ、55 年にも433人のカルテと細分化された数千点に上る組織片が送られた。
カルテや標本の数などから、高橋講師は利用された人数が1200人以上とみている。
調査終了後、ABCCは「現段階で放射線による遺伝的な影響はみられない」と結論付けた。
ABCCの元日本人研究員は取材に対し「広島市では新生児調査がほぼ100%行われ、亡くなった場合は全て解剖された」と証言している。
調査では、妊婦を優先した食料配給制度を利用して、広島と長崎で妊婦の所在などの情報が日本側から米側に提供された。医師や助産師のほとんどが協力要請を受け、新生児が亡くなるとABCCに通報した。
臓器標本やカルテの一部は70年前後から日本に返還され、広島大や長崎大で保管されている。(共同)
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琉球新報社説
被爆新生児調査 人道的責任は免れない
                                                                          2012年4月24日  
核をめぐる非人道性を帯びた深い闇がまた一つ浮かび上がった。
世界で初めて原子爆弾を広島、長崎に落とし、罪のない多数の市民を死傷させた米国が、放射線を浴びて死産したり、生後すぐに死んだ新生児の臓器標本などを独り占めし、遺伝的影響を調べていた。
広島、長崎への原爆投下から数年後、臓器標本やカルテが米国の放射線研究機関で利用された新生児の数は1200人以上に上る。米軍病理学研究所の内部文書で明らかになった。
当時、ソ連との冷戦下にあった米国は水爆など、より威力の大きな核兵器開発に血眼になっていた。臆面もなく、犠牲になった新生児を軍事研究に利用する不遜な態度に驚く。人道的責任は免れまい。
被爆地の遺伝的影響を重くみた米国は、新生児調査で被爆した親の爆心地からの距離や症状、奇形として生まれた子の割合などのデータを集めた。今の放射線の被爆線量の国際基準の源流になっている。
事実を発掘した広島市立大の研究者は「核兵器や放射線研究のために、新生児がモルモット扱いされた」と厳しく指摘している。
原爆投下をめぐっては、大きな疑問がまだ残る。黄色人種の日本が敵国だったからこそ、使用に踏み切ったのではないかという根源的な疑念だ。
日本との戦争を早く終結させるためという大義を掲げつつ、開発から日が浅い原爆を投下したのは、原爆の威力を確認する「人体実験」の思惑があったのではないか。
占領の当事者が、敗戦国・日本国民の人権をないがしろにしていたことは、被爆死した新生児への放射線の影響調査からも浮かぶ。
兵器使用をめぐる米国の差別的体質は、ベトナム戦争で1961年から10年間、約2万回も散布された枯れ葉剤使用にも連なる。
南ベトナム解放戦線が潜む森を根絶やしにするため、米軍は、発がん性があり、奇形を招く猛毒のダイオキシンが含まれる枯れ葉剤を用いた。終戦から37年を経た今も、世代を超えて重い障害児が生まれている。
1991年の湾岸戦争とイラク戦争で米軍は、低レベル放射性物質の劣化ウランを材料とする砲弾を使った。残存した放射線により、住民の健康被害が顕在化している。
戦争は弱者に犠牲を強いる。被爆死した新生児調査で浮かんだ負の遺産を、唯我独尊の軍事大国の内実を問い直す糧としたい。

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