2014年5月8日木曜日

248:過酷体験者の記憶の力から学ぶ:アンネの日記破損事件と安倍没知性政権の「慰安婦証言の検証」

 今日5月8日はドイツの敗戦69年の記念日です。昨年もこの日に寄稿のひとつを→ここで紹介しました。今年は最近の「アンネの日記破損事件」と安倍内閣がこれから行おうとしている「慰安婦証言の検証」に関する論考を、今週発行された『季刊 中帰連』54号の連載に執筆しましたのでそれを紹介させていただきます。
 なおこれは先日紹介しましたオランダ紙への→イアン・ブルマ氏の寄稿と時を同じくして書かれたもので、執筆時は氏の記事については知りませんでした。知っておれば文中で触れることになったと思いますので、こちらも参考にしてください。

また、以下の論考は「アンネの日記破損事件」が発覚した際に、→ここで書き始めた考察の続編として考えています。
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ベルリン歳時記38

    過酷体験者の記憶の力から学ぶ

                  梶村太一郎

(写真1)ナチス焚書80周年追悼集会2013年5月10日 ベルリン 写真筆者
 
 今年は一九一四年の第一次世界大戦開戦から一〇〇年、三九年の第二次世界大戦開戦から七五年、それらの結果としての長い東西冷戦が、八九年のベルリンの壁崩壊によって終結してから二五年に当たる節目の年である。これら二〇世紀の帝国主義戦争とそれへの抵抗闘争で、人類は破滅の淵の寸前にまで追い込まれながら、かろうじて踏みとどまったのであった。
 
 背景には一九世紀にヨーロッパで始まった産業革命による工業生産性の爆発的な上昇がある。それ以降の無制限な資源獲得競争と労働力の動員と搾取はまだ続いている。それに、それらを促したイデオロギーである前世紀の偏狭な国家主義、民族主義、人種主義などは克服されてはいないし、現在も核技術や遺伝子工学による取り返しのつかない自然破壊の脅威はむしろ増大している。根源的に人間とは果たしてこの地球上に生きることが許される存在なのであろうかと、さらに厳しく自問すべきなのが二一世紀である。
特に冷戦終結から四半世紀を経た昨今、世界各地でその反動ともいえる極右勢力の台頭が起こっている。日本の安倍政権も東アジアにおけるそのひとつである。
 
 そんな中、日本から『アンネの日記』破損事件が伝わってきた。東京の公共図書館で三〇〇冊以上の関連本が破損されるという、前代未聞のこの犯罪は世界中で報道され、各方面に少なからぬ衝撃を与えたが、それはこの犯罪が現在の日本社会の病理を反映する象徴的事件として受け止められたからだ。安倍政権だけでなく、社会そのものに歴史改竄主義が浸透していることの現れではないかと疑われている。ドイツでは「日本はこの本が世界でも最もよく読まれている国であるのに」とも報道されている。
 
 昨年末の首相の靖国神社参拝によって、これも前代未聞の国際的孤立を招いている安倍政権は、ユダヤ人問題の核心に触れるからであろう「あってはならないこと」と適切に対処した。日本のメディアでも事件を懸念する報道が広くなされた。日本社会がまだ病み切ってはおらず、免疫力が残っていることの現れであろう。
 この事件は逮捕された容疑者からしても小さな虞犯であるようだが、ところがそこには恐るべき病理が潜んでいる。以下これについての私見を述べよう。

偏見と差別は不在と無知から
 
 まず最初の問題は、「日本にはユダヤ系の人たちが少ないので、反ユダヤ主義は無い」との広く信じられている思い込みだ。そこに最初の無知による落とし穴がある。

 古くには、シェックスピアは『ヴェニスの商人』を、たった一人のユダヤ人も知らずに書いている。当時の中世英国からは、全てのユダヤ人が追放されていたからだ。にもかかわらずこの喜劇が、キリスト教世界において「シャーロック=ユダヤ人」という「ステレオタイプのユダヤ人像」を根付かせてしまい悲劇に結びついたことは否定できない。このような差別的偏見は、フクシマ原発事故以降の日本でも、ナチスもどきの「世界原発ロビーを牛耳っているのはユダヤ金融資本」などのデマ言説として今でも散見される。これなどは「ペストの流行はユダヤ人が井戸に毒を入れたせいだ」としてポグロム(ユダヤ人迫害)を起こしたヨーロッパ中世のキリスト教徒と同程度の反知性の現れである。
 
 また日本は、いわゆるジプシーと呼ばれるロマ民族が集団で全く居住していない社会だが、最近では「ジプシーの子ども=スリ」という偏見が海外旅行案内などでまかり通っている。欧州統合の余波で東欧から西欧の都市にロマたちが増えていることがその契機だ。警戒心の乏しいお上りさんの日本人観光客が、パリやローマの観光地で小さな泥棒たちの格好の標的になるからだ。子どもたちは深刻な差別と貧困が原因でスリを働くのであって、決して「ロマ民族は泥棒民族」ではない。ベルリンの下町の小学校でも、近年増えているロマの子どもたちの社会的統合が特に難しい課題となっており、教師たちはこの頭痛の種と格闘している。
 
 以上のように日本においてユダヤやロマ民族に関する偏見と差別が無抵抗に広がり免疫がないのは、対象の不在と無知という貧困のためである。差別の本質には「相手を知らない」という無知がある。

「ひとが書物を破るところでは・・・」
 
 次にアンネの日記破損事件で、わたしも含めて多くの人たちが即座に連想したのは、ハインリッヒ・ハイネの一八二〇年の悲劇『アルマンゾル』のイスラム教徒の次の台詞であろう。
「これは序幕にすぎない。人が書物を焼くところでは、ついには人間を焼くことになる」

 これもあまり知られていないことだが、この戯曲の言葉は、レコンキスタ(キリスト教徒によるイスラム教徒からのイベリア半島の再征服)の最終段階の一四九九年に、スペインの南端グラナダに追いつめられ、キリスト教徒に聖典コーランを焚書されたイスラム教徒の台詞として書かれている。なぜこれが近代史の記憶とされたかは、一九三三年五月に権力掌握直後のナチスが組織的に行った焚書でユダヤ人ハイネの書物も焼かれたことから、ホロコーストを予言した言葉として戦後になって想起されたからである。ハイネがイスラム教徒の言葉をしてキリスト教徒によるユダヤ教徒の民族殲滅犯罪を予言させたことになったのである。これこそ正に「言葉の力」であろう。

 このようにしてアンネの日記破損事件は「これは序幕にすぎない。ひとが書物を破るところでは、ついには人間を傷つけることになる」と危惧させたのである。
 
 わたしは昨年、本誌五二号に→「ナチス権力掌握80周年」と題して、ベルリンでナチ時代にどのように「文化の多様性が失われたか」を啓蒙する行事が企画されていることを報告した。それを書き上げたあとで行われた行事のひとつをここで追加しよう(注1)。
 
 一九三三年五月一〇日、ベルリンでフンボルト大学のナチ党員学生による「非ドイツ的書籍」の組織的焚書が行われたのは、大学本部の正面にある法学部に面したベーベル広場であった。それから八〇年後のこの日、ここで知識人たちによる焚書に遭った書物の朗読会がおこなわれ、犠牲者を追悼した(写真1)。
 
(写真2)「本のない図書館」写真筆者
 この広場のバロックの素晴らしい建物はプロイセンのフリードリッヒ大王によって建築された王立図書館であり、後に大学のものとなった。そこから運び出された書物が焼かれた広場の中央には冷戦後の一九九五年に完成した世界で唯一の「本のない図書館」という地下記念碑がある。この日は、ガラス張りの地下の、本が一冊も無い空の本棚を覗き込む子どもたちの姿が見られた。(写真2)
 
 ちなみに、一八九五年には若きレーニンもこの図書館で熱心に勉強している。ここから始まった彼とドイツとの関係は世界史にとって宿命的なものとなる。冷戦後の歴史資料の開示により、レーニンを保護し膨大な資金援助をしてロシア革命を成功させたのは当時のドイツ帝国政府であったことが実証されている。第一次世界大戦当時ドイツの敵となったロシア帝国の内部崩壊を謀ったのである。「敵の敵は最大の味方」という理由だ。ボルシェビキの権力掌握でこれは一旦成功したが、間もなくソ連邦はナチドイツの最大の敵となり、第二次大戦でドイツは完敗し、その後の冷戦ではソ連邦が完敗して崩壊した。
 さらに現在進行中のウクライナ危機でも、舞台裏では同じ発想がワシントンとモスクワのどちらにも生きていることがうかがえる。この歴史の悪循環を断つものは何であろうか。これこそが、人類が問われている今世紀最大の問いなのである(*)

チャイヤ・シュトイカーさんの記憶の力
 
 話しを元に戻そう。「アンネの日記」が記しているのは、一九二九年生まれの少女アンネのアムステルダムの隠れ家での日記である。才気あふれる少女による時代の記録として非常に貴重な世界史的遺産である。だが、ナチスに逮捕されて後、アウシュヴィッツとベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された彼女に関する記録は乏しい。亡くなった日付すら不明だ。

 それに日本ではアウシュヴィッツで何が行われたかは、かなり知られているが、アンネが亡くなった→ベルゲン・ベルゼンについてはほとんど知られていない。このドイツのニーダーザクセン州にあった強制収容所の末期は、地獄の中の地獄であった。一九四五年四月一五日に英国軍により解放されたときには、文字どおり餓死者の死体が山をなしていたのである。そこのアウシュヴィッツですらなかった光景を膨大な→英軍の記録が証明している。あまりの多さとチフスの拡大を防ぐためブルトーザーで死体を埋めたが、それでも解放後二ヶ月間に一五〇〇〇人もの死者が出ている。非戦闘員が被った悲惨さにおいては、おそらくヒロシマ・ナガサキに次ぐものであろう。

 ところでわたしには、このような言語に絶する地獄を生き延びたひとりの女性の記憶に直に接した貴重な経験がある。ここで初めてそれを書き残しておこう。

 その女性、→チャイヤ・シュトイカーさんはアンネよりも四歳若い一九三三年、オーストリア生まれのロマである。彼女の一家は馬の売買を生業としており、彼女も生まれた時から馬車で各地を渡り歩く生活の中で育っている。そのため自然との結びつきがとりわけ強固である。これが後述のようにこの家族の多くが生き延びることのできた理由のひとつだ。

 彼女と知り合ったのは一九八九年の秋のことで、当時ウイーン大学で教鞭をとっていた知人の金子マーティン氏の依頼が契機だ。ある日電話で「オーストリアのロマの代表ふたりが、年末に行われる岡山県部落解放同盟主催の世界人権大会に突然参加することになった。わたしは大学があるので代わりに通訳として同行してほしい」とのことだ。岡山はわたしの郷里でもあり、また江田五月氏らの解放同盟とはドイツの市民運動との交流でよく知っていることもあり承諾した。

 というわけで壁が崩壊したばかりのベルリンを離れて、チャイヤさんともうひとり若い代表のスザンネさんと共に一二月一〇日の世界人権デーを中心に一〇日ほど訪日することになった。チャイヤさんが招かれたのは、前年の八八年、彼女がオーストリアのロマでは初めてナチ時代の回顧録を出版し、同国で高い評価を受けていたからである。この回顧録はそれから二年後に金子氏により翻訳出版されているのでチャイヤさんのアウシュヴィッツ、ラーベンスブリュック、さらにベルゲン・ベルゼンでの二年三ヶ月にも及ぶ体験は是非これを参照していただきたい(注2)。アンネ・フランクもそうであったようにナチスの強制収容所では、過酷な強制労働で半年、長くても一年で体力が尽きてしまうのが普通であった。

 日本での旅の途中、彼女はわたしにも「子供のわたしが生き延びることができたのは、離れずにいた母のおかげです」と証言している。彼女らがベルゲン・ベルゼンに移送されたのは、おそらくアンネ・フランクが死亡した直後のことである。回顧録にも「収容所の入り口近くでまず目にしたのは胸が切り裂かれ、心臓と肝臓が切り取られている死体であった」とある。食糧が尽き、カニバリズム(人肉食)が公然と行われていた。そんななかで例えば「収容所には樅の樹がありました。春先の新芽で母はどの部分が食べられるかを知っていて教えてくれたのです」と、これは回顧録にはない証言があった。彼女だけでなくロマ民族の生存者の証言には、いかに彼らが自然と共存し、それを讃える豊かな能力を備えているかを教えられることが多いのである。

 
(写真3)「ベルゲン・ベルゼン1945」C.Stojka
解放当時一二歳の彼女の体験記憶は抜群で、彼女の証言で同収容所にもロマだけを収容した区域があったことが知られ、後にそれが資料で裏付けられたこともある。日本訪問後にチャイヤさんは盛んに絵を描き始めるのだが、これは過酷体験のトラウマの自己療法でもある。→原点である美しい自然の絵もあり、悪夢の絵もある。ベルゲン・ベルゼンの絵のひとつを挙げておく(写真3)。一人の少女の体験の真実が表現されている。これはアンネ・フランクの記憶でもあろう。

 さて、日本へ向かう飛行機の中で彼女がわたしに最初にした質問は「日本には柿があるだろう」というもであった。「たくさんあるし、今が季節だ」と答えると非常に喜ぶのである。ヨーロッパではアルプスの北側には柿は育たないし、当時は市場にも出荷されていない。柿が好きなのだろうかと問うと、そうではないという。

 そこで彼女が話してくれたことは、アウシュヴィッツで失った当時七歳の一番年下の弟オッスィの想い出である。回顧録にも愛する幼い弟が腸チフスで亡くなる様子は一節をもうけて詳しく述べられている。話しによれば、強制収容所に彼らが送られる前、次第に厳しくなるナチスの迫害に脅えながら暮らしていたウイーンの寒い街角で、あるときイタリア人とおぼしき男性が、空腹を抱えているチャイヤとオッスィに、思いもかけず珍しい柿を恵んでくれたことがあったという。そのとき幼い弟がそれを喜んで食べる姿が忘れられないというのである。

 
(写真4)謳いながら柿をもぐチャイアさん1989年12月写真筆者
さて、岡山市での公式の行事が終わり、ホテル住まいから解放されたある日、わたしたちは近郊のある大きな農家に宿泊した。一夜明けると瀬戸内の快晴の空がまぶしい。ふと見ると庭先の木に柿がまだ取り残されているのが眼に入った。この季節日本ではどこにでもある風景だ。それを告げるとチャイヤさんは、家のご主人にさっそくハシゴを架けてもらって、ロマ語で即興の歌声を青空に挙げながら柿をひとつずつもいだのである(写真4)。ロマ語を理解できないわたしにも、それが失われた幼い弟の魂に呼びかける追悼の歌声であることだけはしみじみと伝わってきた。ロマ民族の、喜びも悲しみもこのように即興詩にして見事に謳い上げる素晴らしい能力を眼の当たりにしたのであった。それ以来、アウシュヴィッツで亡くなった見知らぬロマの男の子、オッスィはわたしの心の中でも忘れられない存在となったのである。まさしく「記憶を伝える芸術の力」の賜物といえる。

 その翌日、広島の平和公園を訪ねたのだが、原爆資料館の一角で震えながら座り込んでしまったチャイヤさんの姿もわたしの記憶に刻まれていることを付言しておこう。

 さて、チャイヤさんは晩年まで大活躍を続けた。二〇一一年六月には、敬虔なカトリック教徒の多いロマの信者の代表として、バチカンを訪問し、当時のローマ法皇に面会し「もっとロマの声に耳を傾け、はっきりとわたしたちを受け入れ尊重してほしい。アウシュヴィッツは二度とあってはならないのです」と訴えて大きなニュースとなった。彼女は昨年二〇一三年二月二八日、アウシュヴィッツ解放記念日の翌日、ウイーンで亡くなっている。ようやく愛しいオッスィと再会をはたしているであろう。
 
安倍没知性政権
 
 ところで「アンネの日記破損事件」で前述のような懸念が国際的に広がったため、安倍首相は三月二三日のオランダ訪問の際、アムステルダムのアンネの家を訪問している。外務省の記録によれば、記念館長との懇談で「首相は事件が起こったことは大変残念である」とし、さらに「二〇世紀は、戦争や人権が抑圧された時代だったが、二一世紀はそうしたことの起こらない世界にしたい、歴史の事実を謙虚に受け止め次の世代に語り継いでいくことで平和を実現したい」と述べたとある。まことに非の打ち所の無い立派な言葉である。

 ところが、他方で彼の内閣がやろうとしていることを見ると、これが二枚舌であり、虚言であることが明らかである。河野談話に関して政府は「検証チーム」を作り、談話の根拠のひとつである元「慰安婦」たちの証言に「裏付けがあるのか検証する」というのである。このような行為は一国の政府が「アンネの日記は偽作の疑いがあるので検証する」ことに等しい。すなわち、過酷体験の記憶を否定しようとする反人道的行為となる。安倍政権には、この自らの矛盾を理解する知的能力が欠落している。恐るべき没知性政権である。

 そもそも、わたしたちも遠い過去の記憶では時間や場所が曖昧になるのは普通である。ましてや過酷体験者の証言が、事実と齟齬することはよくあることである。チャイヤさんもアウシュヴィッツへの移送が一九四一年のことだったと思い込んで回顧録を書いている。学者による検証で四三年であったことが判り訂正した事実がある。だからといって彼女の証言が嘘であるなどと誰も言わないし、言えない(注3)。

 河野談話の「検証」がなされるならば、近隣諸国の安倍政権不信をさらに助長し、安倍政権が過酷体験者の記憶の力を、いよいよ思い知らされ、そこから学ぶ結果に終わることは確実である。

(注1)この企画の最終行事については、筆者のブログ「明日うらしま」の→第207回。二〇一三年一一月三〇日に報告がある。

(注2)『ナチス強制収容所とロマ』金子マーティン編訳・明石書店。
本書はチャイヤさんの回顧録『人知れず生きて』の翻訳とともに、日本訪問後に行われた訳者によるインタヴューで構成されている。

注3)この問題に関しては金子マーティン氏はもうひとつの著作で別の人物の回顧録を翻訳し、過酷体験者の記憶と学問の両輪関係を詳しく論じており参考となる。『「ジプシー収容所」の記憶』一九九八年、岩波書店
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(*)この問いについては現在進行中のウクライナ危機に関連して、近いうちに論考を執筆するつもりです。


2 件のコメント:

  1. 柿のところを読んでいて、ふと、フランクルの「夜と霧」を思い出した。

    ――わたしはそれ(小さなパンの一切れ)が、現場監督が自分の朝食から取り置いたものであることを知っていた。

    あのとき、わたしに涙をぼろぼろこぼさせたのは、パンというものではなかった。
    それは、あのときこの男がわたしに示した人間らしさだった。
    そして、パンを差し出しながらわたしにかけた人間らしいことば、そして人間らしいまなざしだった……。

    ※※
    転記して、遠く埼玉のはずれより貴兄のご健筆を祈る。

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  2. 田中さま、
    ありがとうございます。
    チャイヤさんは晩年にはオーストリア政府から功労勲章で讃えられ、また芸術大学からは名誉教授の肩書きを得ています。人道犯罪の過酷体験者に対する社会の姿勢はかくあるべきですね。

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