このブログを始めて以来、招待された一昨年、昨年と2月にはフクシマ事故と震災に関する日本の優れた作品、またこの→映画祭の歴史背景を紹介してきました。
27.Jan.2014.Berlin.Photo:T.Kajimura |
しかし先月末にあった映画祭のボスであるコスリック氏の記者会見には出かけました。日本の映画人の皆さんにはおなじみのこの方の、記者会見は、実に面白いからです。
その時の左の写真の背景にあるのが今年のベルリナーレのポスターです。
日本映画以外でも、興味ある映画に出くわせば(これは時間があればの問題です)、紹介したいと思います。
さて、そこで今回は、3年前のベルリン映画祭、すなわちフクシマ事故のちょうどひと月前の2011年2月に上映された原発に関する映画のひとつについて書きます。
というのは、今日、東京都知事選挙戦で連日声をからしている小泉純一郎元総理が、→彼のツイッターで以下のようにつぶやいていることを知ったからです:
日本のみなさまにも、この原発推進をしていた(すなわちこの面でも、わたしの長年の宿敵であったし、靖国問題などでは今でも宿敵である)元総理大臣の原発に関する考えを180度転向させる助けとなったこの映画を、無料サービス中の10日までに是非とも観ていただきたいと思うからです。(ただし、ドイツなど特定の日本国外からはネットでは観れませんので、ご了承下さい)
ついでですが、連日街頭演説で頑張っている小泉氏は、ツイッターで以下のようにもつぶやいています:
今の話だけど、このところ、テレビや新聞の都知事選報道が限定的、時には一方的だと感じるのは僕だけだろうか。原発の争点隠しにも見える。この壁を突破するには街頭で出会った人、ネットを見てくれる人の力にすがる他はない。皆さん、この壁を必ず突破しよう!
この指摘の意味するところは、おそらく今回の選挙結果に関して大きな意味を持つことになると思いますので、ついでにここで引用しておきます。
さて、本題ですが、2011年2月のベルリン映画祭は、当時の中道右派の第二次メルケル政権がすでに決定されていた脱原発法にある原発の稼働期間を延長させることを強行し、ドイツで反原発運動が、寝た子を起こすように活発になっていた時期でした(わたしも当時の『世界』でこの様子を報告しています)。
そのような政治情勢を背景に、映画祭ではいくつかの原発に関する優れた映画が紹介されており、そのひとつが「10万年後の安全」でした。これも芸術祭の批判精神が社会文化に貢献することの、実に良い一例であると言えます。
これらの原発映画について、日本語の→「ドキュメンタリー映画の最前線」というメルマガでフクシマ事故後の2011年7月に報告があります。
実は、この報告の筆者である、梶村昌世というのはわたしの長女です。ですからおやじが紹介するには、気が引けるところです。しかしこの際、日本の元首相の考えを変えた映画の日本語でのまとまった内容の紹介の嚆矢でもあるので、ここにあえて該当する後半部分だけを採り上げておきます。全文は上記をご覧ください。
この優れたドキュメントの理解の一助になればと願います。
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原子力とその後先をめぐるドキュメンタリー映画
・・・・(前半は省略)・・・・
今日まで核廃棄物の問題は解決されていない。持続的な処理計画もなければ、最終処分場もはない。この課題に取り組むもう一つのドキュメンタリー映画がある。
様々な映画祭で受賞したデンマーク人の監督ミヒャエル・マドセンの『Into Eternity』(『100000年後の安全』)はフィンランドの最終処分場オンカロを探査する。オンカロとはフィンランド語で隠れ場所を意味する。世界初の永久な最終処分場として企画、設計され、18億年の岩盤の地下500メートルに巨大なトンネルシステムが建設されつつある。フィンランドとスエーデンの共同企画として20世紀の70年代に発足、2100年代に完成が予定されている。
この最終処分場にはウラン、プルトニウムなど原発の核廃棄物が保管されるわけなので、10万年という、人の想像を絶する期間封じられたままである必要がある。そうすると、実践的に切実な、同時に哲学的な質問が出てくる。10万年後、人類は滅びているかもしれない。もしかして存在しているかもしれない。または違う生態系が生まれているかもしれない。
いずれにしろ、10万年後の文明に、最終処分場オンカロを封鎖したまま開けてはならないことをどう伝えるという問題にぶつかる。言語も文字も知能も10万年後の人間は全く異なっていることが予想される。どのように未来の人間とコミュニケーションをとるか、如何にして情報を収めるか、北欧の専門家が思い悩む。
『アンダーコントロール』とはスタイルが全く異なるこの映画は、タイムカプセルのような建設中の最終処分場を発破工に付いて探索し、最終処分場をめぐる様々な要素を専門家たちが会議で議論しているかのようにカメラに向かって語る。監督自身も10万年後の未来の人間に語りかけるというナレーションの手段を取り、映像の撮り方、音楽の使い方も現実を超現実的なものにしていく。
実際、10万年の歳月を考えると、現実というものはとてつもなく小さくなっていく。未来が如何に予想できないことかが明らかになり、そして人間の存在、私たちの想像の限界が見えてくる。わからないという事実だけが確かに見えてくる。
今私たちの家庭に送られてくる原子力によって発電された電気は、このような計り知れない後難がある。原子力というテクノロジーが生み出した様々な問題は、末永く人間に付き添い、被曝と放射能汚染という危険はなくなることがない。
戦後、原子力のいわゆる平和利用が始まってから平均で10年に一度世界のどこかで起きた大きな原発事故と核軍拡競争への反応としてドイツでは60年代から根強い反核運動が生まれ、人々は高い問題意識を持っている。そして1986年のチェルノビリ原発事故で放射能雲が西ヨーロッパまで届き健康と生活を脅かされる経験をする。今回福島第一の原発事故で、地球の反対側にあるドイツがここまではっきりと脱原発に踏み出したのは、そういう背景がある。
しかし、似たような過去を持っている日本とドイツが現在こうにも違う状況にあるのは、もう一つ理由があるように思える。第二次世界大戦で同盟国として加害者であった二つの国は、戦後戦争責任への取り組みが国レベルでも、個人のレベルでも異なっている。
日本では原爆投下の被害によりアジア各国での戦争犯罪を充分に伝えれることなく、広島・長崎の経験者でありながらも原発を促進してきた。ドイツは、ホロコーストと60年代から向き合い、その反省が社会全体に対する批判的な姿勢を促し、根強い社会運動と環境保護運動を生み出した。過去に向き合い、責任を持つことは、未来を育てることでもある。今回の大きな試練を機に、日本人一人一人が自分と社会の繋がり、そして自国の歴史を見つめ直し、自分と世界、日本と世界の関係を考え、今後少しでも暮らしやすい環境を作っていけたら、今回の大きな犠牲もまたチャンスであるに違いない。
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さて、そこで今回は、3年前のベルリン映画祭、すなわちフクシマ事故のちょうどひと月前の2011年2月に上映された原発に関する映画のひとつについて書きます。
というのは、今日、東京都知事選挙戦で連日声をからしている小泉純一郎元総理が、→彼のツイッターで以下のようにつぶやいていることを知ったからです:
私はこれをみて変わった!一人でも多くの人に是非是非みて欲しい。 映画『100,000年後の安全』→(日本語吹き替え版・2月10日12時まで無料配信中)
日本のみなさまにも、この原発推進をしていた(すなわちこの面でも、わたしの長年の宿敵であったし、靖国問題などでは今でも宿敵である)元総理大臣の原発に関する考えを180度転向させる助けとなったこの映画を、無料サービス中の10日までに是非とも観ていただきたいと思うからです。(ただし、ドイツなど特定の日本国外からはネットでは観れませんので、ご了承下さい)
ついでですが、連日街頭演説で頑張っている小泉氏は、ツイッターで以下のようにもつぶやいています:
今日の荻窪・八王子・町田の街頭もスゴかった。だけど、街頭の反応と世論調査とどうしてこんなに違うのか。何度も選挙をし、街頭演説をしてきた僕から見るとこれなら圧勝のはずだが、調査結果は一位ではない。おかしい。
今の話だけど、このところ、テレビや新聞の都知事選報道が限定的、時には一方的だと感じるのは僕だけだろうか。原発の争点隠しにも見える。この壁を突破するには街頭で出会った人、ネットを見てくれる人の力にすがる他はない。皆さん、この壁を必ず突破しよう!
この指摘の意味するところは、おそらく今回の選挙結果に関して大きな意味を持つことになると思いますので、ついでにここで引用しておきます。
さて、本題ですが、2011年2月のベルリン映画祭は、当時の中道右派の第二次メルケル政権がすでに決定されていた脱原発法にある原発の稼働期間を延長させることを強行し、ドイツで反原発運動が、寝た子を起こすように活発になっていた時期でした(わたしも当時の『世界』でこの様子を報告しています)。
そのような政治情勢を背景に、映画祭ではいくつかの原発に関する優れた映画が紹介されており、そのひとつが「10万年後の安全」でした。これも芸術祭の批判精神が社会文化に貢献することの、実に良い一例であると言えます。
これらの原発映画について、日本語の→「ドキュメンタリー映画の最前線」というメルマガでフクシマ事故後の2011年7月に報告があります。
実は、この報告の筆者である、梶村昌世というのはわたしの長女です。ですからおやじが紹介するには、気が引けるところです。しかしこの際、日本の元首相の考えを変えた映画の日本語でのまとまった内容の紹介の嚆矢でもあるので、ここにあえて該当する後半部分だけを採り上げておきます。全文は上記をご覧ください。
この優れたドキュメントの理解の一助になればと願います。
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原子力とその後先をめぐるドキュメンタリー映画
・・・・(前半は省略)・・・・
様々な映画祭で受賞したデンマーク人の監督ミヒャエル・マドセンの『Into Eternity』(『100000年後の安全』)はフィンランドの最終処分場オンカロを探査する。オンカロとはフィンランド語で隠れ場所を意味する。世界初の永久な最終処分場として企画、設計され、18億年の岩盤の地下500メートルに巨大なトンネルシステムが建設されつつある。フィンランドとスエーデンの共同企画として20世紀の70年代に発足、2100年代に完成が予定されている。
この最終処分場にはウラン、プルトニウムなど原発の核廃棄物が保管されるわけなので、10万年という、人の想像を絶する期間封じられたままである必要がある。そうすると、実践的に切実な、同時に哲学的な質問が出てくる。10万年後、人類は滅びているかもしれない。もしかして存在しているかもしれない。または違う生態系が生まれているかもしれない。
いずれにしろ、10万年後の文明に、最終処分場オンカロを封鎖したまま開けてはならないことをどう伝えるという問題にぶつかる。言語も文字も知能も10万年後の人間は全く異なっていることが予想される。どのように未来の人間とコミュニケーションをとるか、如何にして情報を収めるか、北欧の専門家が思い悩む。
『アンダーコントロール』とはスタイルが全く異なるこの映画は、タイムカプセルのような建設中の最終処分場を発破工に付いて探索し、最終処分場をめぐる様々な要素を専門家たちが会議で議論しているかのようにカメラに向かって語る。監督自身も10万年後の未来の人間に語りかけるというナレーションの手段を取り、映像の撮り方、音楽の使い方も現実を超現実的なものにしていく。
実際、10万年の歳月を考えると、現実というものはとてつもなく小さくなっていく。未来が如何に予想できないことかが明らかになり、そして人間の存在、私たちの想像の限界が見えてくる。わからないという事実だけが確かに見えてくる。
今私たちの家庭に送られてくる原子力によって発電された電気は、このような計り知れない後難がある。原子力というテクノロジーが生み出した様々な問題は、末永く人間に付き添い、被曝と放射能汚染という危険はなくなることがない。
戦後、原子力のいわゆる平和利用が始まってから平均で10年に一度世界のどこかで起きた大きな原発事故と核軍拡競争への反応としてドイツでは60年代から根強い反核運動が生まれ、人々は高い問題意識を持っている。そして1986年のチェルノビリ原発事故で放射能雲が西ヨーロッパまで届き健康と生活を脅かされる経験をする。今回福島第一の原発事故で、地球の反対側にあるドイツがここまではっきりと脱原発に踏み出したのは、そういう背景がある。
しかし、似たような過去を持っている日本とドイツが現在こうにも違う状況にあるのは、もう一つ理由があるように思える。第二次世界大戦で同盟国として加害者であった二つの国は、戦後戦争責任への取り組みが国レベルでも、個人のレベルでも異なっている。
日本では原爆投下の被害によりアジア各国での戦争犯罪を充分に伝えれることなく、広島・長崎の経験者でありながらも原発を促進してきた。ドイツは、ホロコーストと60年代から向き合い、その反省が社会全体に対する批判的な姿勢を促し、根強い社会運動と環境保護運動を生み出した。過去に向き合い、責任を持つことは、未来を育てることでもある。今回の大きな試練を機に、日本人一人一人が自分と社会の繋がり、そして自国の歴史を見つめ直し、自分と世界、日本と世界の関係を考え、今後少しでも暮らしやすい環境を作っていけたら、今回の大きな犠牲もまたチャンスであるに違いない。
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